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 目覚めてすぐに感じたこと。それはこんなにも変わり映えしないものなのか、ということだった。

 意図して好きだと告げたわけではなかった。
 恋に気付いてもうすぐ1年だろうか、だが九郎はまったく想いを告げるつもりはなかった。それは彼と暮らした5年以上にも及ぶ月日のせいだ。微笑みを向けられ楽しそうに笑うその声を聞くだけで息が詰まるほどに彼に恋していたけれど、それでもここまで重ねた年月が九郎の口を封じてしまっていた。
 なのにするりと、本当にするりと不用意に言ってしまったのは、ただの話の流れ。勢いもなにも一切なく、迂闊、の一言が似合いの状況だった。
 もしかしたら全ては夢だったのではないだろうか、と、思うほどにあっけなく。
 ……むしろ、本当に夢だったのかもしれない。それほどに今、瞼を開けるなり映った天井はいつもどおりで、その他の部屋の中の景色も、頭の覚醒具合もまったくいつもどおりだった。
 むくりと起きあがり、掛けておいた衣に袖を通し帯を締め襟を整え、顔を洗えばなおさらに。
 それでもただ、手のひらに唇に、ぼんやり残る感触、それは九郎が今まで見てきた夢のどれよりも鮮明だったから、やはり夢ではないのだろうな、と……希望混じりとはいえ、思うことはできた。
 だって覚えてる。あの時の彼の微笑みも。
 つい零れてしまった言葉を、知られてしまった気持ちをきちんと言いなおしたら、弁慶は驚いた。驚いて、暫く呆然としていた、けれどふいに微笑み「そうですか」とふわりと告げた。九郎はただ「そうだ」と頷くしかできなかった。自分でも動揺していたので、それが精一杯で、近づく事も遠ざかる事も、言葉を重ね彼に想いを確認することもできなかった。弁慶はそんな九郎の手をとった。そして「だったら接吻でもしてみましょう」と、唇に唇で触れた。
 ただそれだけの事柄。だけど。

 よし、と気合を入れ、朝餉を取ろうと部屋を出たところで、偶然にも弁慶にはち合わせた。同じ家に住んでいるわけだし、その上そう大きな屋敷でもない、というのに、まさに不意打ちを食らった九郎は慌てた。
「べ、弁慶!」
「九郎、おはようございます。よかった丁度君を起こしに行くところだったんですよ。眠れなかったんですか?」
「そりゃ、まあ」
 突然の遭遇な上、早々に図星を指されて九郎は口ごもる。そう、日常と唯一異なっていたのが起床時間。いつも通りに起きたつもりだったが、どうやらかなり寝坊をしていたらしい、と、身支度をしている途中で気がついた。理由は明白。昨日の弁慶とのいきさつのせいで、そういえば夜寝付けなかったから。
 でも、動揺を隠せない九郎に、弁慶はただにこりと微笑んで続ける。
「しっかりしてください。今日は大事なお務めの日でしょう? その恰好を見るに、どうやら忘れてはいなかったらしいけれど」
「当たり前だ!」
「なら、よかった。もっとも君が君の兄上からの言いつけを忘れるなんてまずあり得ませんけどね。ああ、そうそう、今日ご一緒する佐藤殿ですが、どうやら他に急ぎの用ができたということなので、ここに到着するのは昼近くになるようですよ。よかったですね」
「何が」
「元の日程のままだったら、お待たせしていたかもしれませんからね」
「……俺もたしかに寝坊したが、お前もいつもより早いぞ」
「ええ、君の事が気がかりだったので、早起きしましたから」
 それは、いつもの彼そのものの姿だった。九郎はじっと見つめる。けれど、弁慶は平然と、悠然と九郎を見つめ返す。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
 首をかしげるその仕草も通常そのもの。その姿に、ゆっくりと、九郎は自分の心が沈んでゆくのを感じた。だってあまりにも、そうあまりにも、
「……変わらないな」
でも、言うつもりはなかった。あ。と思った時には遅かった。遅すぎた。昨日と同じだ、完全に無意識のうちに声が零れていた。しまった、と狼狽するも、
「変わらない?」
昨日と同様、そのままそっくり返された。九郎は更に言葉に詰まる。こんなところも、そして拳を握りしめてなんとか言葉を紡ぐところも、同じ。
「だ、だからその、俺とお前は昨日せっせせせっ」
ということはやはり九郎の気のせいなんかじゃなく。
「接吻?をした?」
「そ、そうだ」
やはり自分と彼は、
「ってことは、こっ……こっ」
「恋仲?」
「ああ、恋仲になったんだろう? なのに……ん、なんだ?」
「いえ、予想を裏切らない反応だな、と思って」
事実があるはずなのに、なのに彼の言葉は平坦だった。それはつまり……、と、結論が九郎の口から吐いて出るより先に弁慶がいきなり満面の笑みを浮かべた。
「ですが、そうですね、だったら期待を裏切ってはいけないですね」
 そして唐突に両手で九郎の手を包む。鼓動が跳ね上がった。想いに気付いてしまってから昨日までの約一年、九郎が気軽に触れることのできなくなっていたものがあっさりと。息を飲む。
 けれど彼の名を呼ぶ隙も与えず弁慶は、すっと顔を近づけじっと九郎を見つめる。それは彼の癖だ、分かっていても少し動けば再び唇で触れあえる距離。
「本当は、こんなに早起きするつもりなんて、なかったんですよ。先程も言いましたが、君が鎌倉殿からの命を違えるはずありませんから」
 優しい笑みで彼は告げた。
「ですが、今朝君の夢を見て、昨日の事を思い出してしまって……『君の事が気がかりで』早起きしてしまった」
 紡がれたそれは……声音も響きも何もかも甘い。
「丁度よかった。出る前に、少し君と時間を過ごせそうですね」
 甘すぎた。あまりにも。
 過ぎた甘さは苦みに変わる。毒のように心を刺す。
 そして醒める。
「ふざけるな!」
 九郎は思い切り弁慶を突き飛ばした。ドン、と彼が戸にぶつかり顔をしかめる、けど、構わず九郎は叫んだ。
「俺は嘘をつかれるのが嫌いだ! お前だって…お前なら知ってるだろう!?」
「九郎?」
「なのに……そんなもの、同情なんか要るか!」
 ほらやはり夢だったんだ。
「そうじゃないならまたいつもみたいに俺のことをからかって遊んでるんだろう!?馬鹿にして……もういい、出てってくれ顔も見たくない!」
 彼が九郎の想いを受け取ってくれるなど、幻想でしかなかったんだ。
 そう考えれば納得が要った。都合が良すぎると思っていたんだ。普通、もっと驚くだろう、長年の友から好きだとか言われれば。自分はそうだった。最初に気付いた時にはいっそほの暗い感覚に陥った。昨日彼に拒絶されなかったときはもっとだ。口づけしてから寝るまでの記憶がほとんどない。今だってこんなにも動揺しているというのに、
なのに弁慶はちっともそんな風を見せない。平常を崩さない。一向に。
 元々の性格の違いもあるだろう、経験の差……みたいなものもあるのかもしれない、でも、それよりもっと……あまりにも悠然としすぎている。きっとただ、九郎に合わせているだけなのだろう。
 弁慶からすれば九郎など、取るに足らない存在だと、もしかしたら親友と思っていたのさえ九郎の一方的なものだったのかもしれないと、
「……なんでお前にこんなこと…………」
悔しかった。歯牙にもかからぬ存在でしかないことが悔しかった。
 好きなのに。こんなにも……本気の想いしか要らぬほどに好きなのに。
 俯き、うなだれる。つくづく昨日の己の迂闊さを呪った。いや、恋心など抱いたのがそもそも間違いだったんだ。でも遅い。せめて今からでも忘れようと頭を振ってみた。
 と、そこで、くすくすと笑い声がした。
 誰かに見られていたのか、と、九郎は慌て顔をあげる。が、笑っていたのは他の誰でもない弁慶で、
「ふふっあはははははっ」
こらえようともせず、九郎の目の前で体を折り曲げ笑っていた。
「……!!」
 もはや怒りと絶望で九郎は声も出せなかった。もう待てない。一刻も早く弁慶の前からいなくなりたい!
 思い振り返ろうとした時、腕を掴まれた。
「離せ!」
 勢いに任せて振り払う。が、
「ほんとに…君の行動は」
直前に手を離した弁慶は横に跳ねる。金と黒の影に九郎が捕われた、その隙に眼前に迫り、
「こんなに分かりやすいのに」
押さえつけるように強い力で両肩を掴まれた。
「離さなけば、今度は本気で行くぞ」
「さっきのも本気でしょう?まったく」
 震えも構わず九郎は言った。が、弁慶も射るようにまっすぐに九郎を見上げ、
「はじめからではなかった、けれど、君の気持ちは分かっていた」
なのにその声は至って穏やかで、まるで波のない湖のようだった。そして唐突な内容。
 九郎は面食らい、いささか怯む。
「なんだ、突然」
「『突然』はこちらの台詞ですよ。そう、君はこんなに分かりやすいのに、時々思いもよらない事する。まさか昨日、あんなに急に言われるなんて、思ってもみなかったんですから」
 声音とは裏腹に、責めるような目だと思った。それはつまり、九郎が急に言ったものだから断りの言葉を用意できていなかった、と、
「僕がどれだけ驚いたか、君に伝えられればいいのに。眠れなかったし、今だって……君にどう接すればいいのか決めかねている」
……最初は素直に思った。けれど。
「べ、んけい?」
「ところで九郎、君はさっき言いましたね、『変わらない』と。だったら君は、どうしたい?」
「どう、って、何の」
「君は僕が好きだと言う。そして僕たちは恋仲になった。その僕がここにいる。だったら、君は今どうしたい? 何をしたい?」
弁慶はなおもまっすぐに九郎を見つめる。微かに下から見上げる大きな目。それは……想いを告げたのは九郎の方だった、九郎だけだった筈だなのに?
「それは……」
 もしかして。
 目は口ほどに物を言う。それが確かだというならば。
「……抱きしめたい」
 話の飛躍もお構いなしに、先ほどまでの激昂も置き去りに九郎はそう本音で答えていた。
「ささやかですね」
 軽やかな声と共に、彼は九郎の肩からそっと手を離し、ゆっくりと降ろした。そのまま留まる。まるで九郎を待っているかのような姿。
 戸惑いながらも九郎は控えめに抱き寄せた。柔らかでもないし、すっぽり収まった、とも言い難い体躯。こうするのははじめてではない筈だ、それでも、まるではじめてだと錯覚するほどに、どうしようもなく気恥ずかしい。そんなこちらの心を知ってか知らずか、弁慶はことりと九郎の頬に頭を預けて笑う。
「なんだかくすぐったい」
 ふわふわと髪が頬を撫でる。あらゆる意味でそれは九郎の台詞だ、と言いたかったけれど、あまりに胸が苦しくて言葉を紡げなかった。
 僅かな後、彼は今度は九郎の背に手をまわした。つい体がこわばってしまう、と、また弁慶が楽しそうに笑いを零してから言った。
「それにしても、あんなにも君が怒るとは思わなかったな。そんなに僕が好きだったんですね」
「……ああ、そうだ」
 お前の態度だってあんまりだった、と言いたくもなるような弁慶の言い草だったが、彼の言葉は事実だったので、九郎は頷いた。すると弁慶がこちらを向いた気配がした。見ればふわりと微笑んでいた。
「君は堅苦しく考えすぎなんです。君は僕が好きで、そして僕も君を拒絶しなかった。だからといって、その事実を確認した、ただそれだけで次の日からいきなり豹変できるほど、君は器用じゃないでしょう? そして僕も」
「だが」
 だからといって一切何も変わらないのも、と、一度流れてしまった想いをせき止められない九郎は主張しようとしたけれどやはり弁慶に遮られる。
「こんな風に僕を抱きしめたい、と思っていたのに、それすらできなかった君が?」
「う」
 それには反論できなかった。確かに……弁慶が普段通りにしていたら、九郎もいつまでそうしていたかは分からない。
「ですが、僕も不義理でしたね。もしかしてまだ、僕が同情や義理で承諾したと、お勘違いしていますか?」
「それは」
ない、と、九郎は今なら思えた。すると弁慶が再びことりと九郎に頭を預けた。
「それはよかった。なら難しく考えないで。君が言いたいことを言えばいい。したいようにすればいい」
そしてそれきり黙った。沈黙は今までになく息苦しい。身じろぎさえできず、腕に力がこもってしまっているのが自分でも分かった。けれどどれも不快ではなかった。静寂は心地よく、触れあう頬は熱く重なる体は暖かく。ただ困惑は消えない。成程彼の言うとおりだった。変わりたい、願えど、いきなりさっき弁慶がしたような振る舞いや甘い言葉など浮かびやしない。
 でも、『したいようにすればいい』なら……、それで構わないなら。
「だったら、もう少しこのままで」
 素直に告げれば、弁慶がくすりと笑う。ただそれだけの仕草で思い知る。
 彼に想いを伝えて良かった。
 焦がれた相手が弁慶で、彼を好きになって良かった。
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雪が降る。ずんずんと。あっという間に地面が白に染まってゆく。
京でも雪は降った。だけど、ここ平泉のように、一刻ばかりですっかり一面雪景色になる、なんてことは、九郎の住んでいた山の上ならともかく、街中では稀だった。
多分寒いからだと、去年言われた。確かに寒い。それでも九郎は庭に佇んで降る雪を眺める。長い髪にそれが落ち、溶けて濡れても気にせずに、
正確には、雪の向こう、木々の向こうに垣間見える街を見下ろしていた。
「約束したのに」
今年最初に雪が積もった時に雪合戦をしようと……去年とうとう勝ち負けを決めることができなかったから、今年の最初に勝った方を去年の勝者にしようと約束したのに、
その相手は未だ帰らない。
「……待つだけ無駄か」
平泉に来て三度目の冬。九郎は庭に背を向けた。


とはいえ特別やることもない九郎は、仕方がないから書物を読むことにした。小卓の前に行儀よく座る。武家の棟梁としての心得を示した本、らしい。火鉢の中で炭がはねる音が眠気を誘う。興味がある内容ではなかったから尚のこと。そもそも九郎は源氏の棟梁になりたいわけでもないし、なるなどと思った事もない。けれど昨日、泰衡に、源氏の御曹司殿はこのようなことも知らぬのか、と言われてしまったものだから、読むことにしたのだ。
ぱらりぱらり、と、頁をめくる。やはり全く興味が沸かない。というより、内容が気に入らない。上にたつ人間は仲間を守るものであって虐げるものじゃないのに。
と言おうものなら泰衡ならまた、九郎が更に気に食わないことでも言うのだろう。だったら彼だったら……、
と、無意識に考えてしまって、なんだか面倒になって九郎はぱたりと仰向けに転がり天井を見上げた。
天気が悪い日は好きじゃない。窮屈だ。特に彼が……弁慶が平泉にいないときは尚更だ。部屋が広く感じた。元々広い部屋ではあったけれど、特に天井が遠く感じる。
やはり今日もそう思いながら、九郎は上をぼんやりと見続けた。
こういう時に考えるのはいつも同じこと。想定する。もし弁慶がこのまま帰ってこなかったら、と。命を落として、とかじゃなく、彼の意思で、平泉を離れると決めたなら、と。
以前から、ふとした瞬間に思うことはあった。九郎は源氏の血を引く者として、一族の悲願である復讐を果たさなければならない。そしてその生き方を選んだ今、ここ以外に居場所もない。そもそも京に未練もなければ、御館の治めるここ平泉に勝る地などないと思っているので、なにも問題などなかった。
けれど弁慶は違う。彼は今だってそうしているように、どこにでも行ける。京では阿彼の薬を待つ人々がいるというし、熊野だって、今は別当が代替わりしているからたまに顔を見せに行っているという。そもそもどうして九郎と平泉に来たのかも分からない。平家を討ち滅ぼすなら、もっと、たとえば九郎の兄のところに馳せ参じたり、熊野に戻った方が功績もあげられるだろう。
だから、そう弁慶は、いつ九郎の目の前からいなくなってもおかしくないのだ。
九郎はその日が来ることを考える。そうしたら、雨の日にはずっとこんな風な鬱屈とした気持ちを抱えて生きてゆくのだろうな、と思い、火鉢にすり寄りながら目を閉じた。


それからゆうに10日は経った頃、弁慶がいつものように帰ってきたので、九郎もいつものように出迎えた。
ただ、その頃には雪もすっかり消えていて、結局勝負の行方は分からずじまい。
「せっかく結構積もったのに」
もはやどうしようもないことだけど、一言ぼやく。けれど弁慶は荷を解きながら、
「そうでしたか。まさかそんなに寒いなんて。熊野なんて、夏が戻ってきたのかみたいな気候の日もありましたからね。ああでも、それは結構前か」
と、言うのを聞くなり、なんとなくおもしろくなくて、九郎は膨れた。
その様子に弁慶は手を止め目を丸くする。
「もしかして、楽しみにしていたんですか? それは悪いことをしてしまいました」
けれど、そう言われると今度は、何を自分はそれくらいのことで腹を立てているんだばかばかしい、などと思ってしまい。
「いや、別にいい。気にするな」
そっぽを向いて返した。そして黙った。
せっかく弁慶が帰って来たというのにどうにも釈然としない。それが更に輪をかけてどうにも気が晴れなかった。
「寂しかったんですか?」
そんな九郎に弁慶が聞いてくる。
「そういうわけじゃない」
「本当に?」
「本当だ!」
つまらないと思ったけど、寂しくなんかなかった。だからそう返したのに、弁慶は苦笑する。
「何故お前が困る」
「うーん、どうしようかな、と思って」
「何が」
「何って……ああ、そうか、あれがいい」
そしてなにやら一人で思いついたらしい弁慶は満面の笑みで立ち上がり、九郎の手も引く。
「なんだ?」
「ふふっ、いい事を思いついたんですよ。騙されたと思って僕についてきてください」



「うっ」
九郎の放った一撃が弁慶の顔に命中して、ぐらり、と外套をはためかせながら弁慶は尻もちをついた。
「やった!」
「卑怯だ」
「なにが」
「僕は長旅の疲れがたまっているのに」
「それはそれ、これはこれ、だ」
と、九郎はぽんぽんと、軽くお手玉を放り投げる。
雪玉がないならお手玉を投げ合えばいいんじゃないか、という弁慶の提案でやってみた合戦は、見事九郎が勝利した。
はじめは、別にそんな子供っぽい理由でふてくされているんじゃない、と、九郎は憤慨したものだが、はじめてみたらなかなかに、本気になっていた。あたると結構痛いからなおさらだ。
弁慶は、座ったままそんな九郎を恨めしげに見ていた。
「大丈夫か?」
近づき、手を差し出す。要りません、と言われるかと思ったけれど、以外に弁慶は素直に握り返してきた。
「大丈夫じゃありません。ああ痛い。明日起きたら痣になってるかも」
目の前に来た顔を覗き込むと、たしかに痛そうだった。
「それは……すまなかった、弁慶」
「本当にそう思ってますか?」
「ああ」
弁慶は性格は悪くとも見目はいいから、それを痛めたのは申し訳ない、と、頷くと、途端、神妙だった表情がいきなり破れ。
「だったら、教えてくれませんか九郎」
しまった、と思った時には遅かった。謀られた。間近の笑顔に息を飲む。
「……な、何を」
「君は、どうしてさっきあんなに落ち込んでいたんですか?」
やっぱりそれを聞かれるか。
「それは、その」
「話してくれますよね、九郎」
「卑怯だ!」
「けれど、ここで答えなければ君こそ腑抜け、ですよね」
「うっ」
ああもう、にっこりと笑むその姿は九郎ですら端正だと思ってしまうほどだというのに、どうして中身はこうなのか。
思いながらも、たしかにここまで来たら…言わざるを得ないだろう、と、九郎は弁慶から離れ、濡れ縁に腰を降ろしてから、呟くように口にした。
「俺にもよく分からん」
「というと?」
隣に腰を降ろした弁慶は見ずに続けた。
「……たぶん、お前が戻ってこなかったら俺はどうしたんだろうな、とでも考えていたんだと思う」
弁慶はもうここにいるのに。仮定の話で落ち込むなど、どうかしている。思ってはいたけれどどうにもならなかった。
言葉を口にしたら、それが本当に起こる事のように思えてきて、ますます憂鬱になった。つい俯いてしまった。
けれどそんな九郎に弁慶は、まるでなんでもない事のように、
「そんな時には君は迎えに来てくれると思っていたのに」
と、随分と朗らかに返すものだから、九郎は頭をあげる。弁慶は微笑んでいた。
「迎えに?」
「ええ」
「行っていいのか?」
「どうして?」
「いや、その……」
弁慶が何を思ってそう言っているのか、九郎は知らない。そもそも仮に、京にでも居座ってもう動きませんと言われたら、実際に平家の敵である九郎があの町に飛びこめるかも謎なのだから、弁慶はもしかして、九郎の思っていることと全く違う話をしてるのかもしれない。
それでも、なんだか、弁慶の口から何気なく零れた言葉が嬉しくて。
「本当にいいんだな?」
「おかしな九郎ですね。何を今更そんな事を確認するんですか」
「確認したかったからだ」
これで、次に弁慶のいない雨の日が来ても、少しはマシな過ごし方ができるような、そんな確信があった。



まとまりきってない
 九郎が見当たらない。
 特に用があったわけではなかった。けれどなんとなく、弁慶は高館の屋敷の中を探す、
と、奥の庭に面した濡縁で彼は一人、外を見ていた。
 呼ぶ前に、すっと近づく。それは九郎の様子を伺うためだった、でも飛び込んできた光景に、弁慶は思わず口にした。
「これは……ああ、懐かしい」
 九郎が振り返る。
「戻ったか弁慶。御館には会えたか?」
「いえ、残念ながら。ちょうど中尊寺に詣でに出たところだったそうで。夕方にでもまた出直しましょう」
「そうか」
 弁慶が九郎の隣に腰をおろしたところで、彼もさっきまでしていたように庭に向き直る。
 弁慶も倣って庭を見た。見上げた。
「この木、あの時の木ですよね?」
 庭の中心には、柿の木。まだ若い木だけれど、立派に実が成っている。
「ああ、そうだ。この前泰衡にも聞いてきたから間違いない」
 覚えている。はっきりと。
 何故なら、これは彼らがまだ若かった頃、最初にこの地へ来た頃にはなかったものだからだ。
「まさか、本当に育つなんて」
 呆気にとられ見上げてしまう弁慶に、九郎が手の平に橙を乗せ差し出した。
「食うか?」
「その木の柿、ですか?」
「ああ」
 柿色の髪を揺らしながら、こっくりと頷く九郎。どこか誇らし気だ。
 そんな彼が実に愛おしい。などという想いをこめて弁慶はにっこりと微笑み返す。
「結構です」
 九郎は首を傾げた。
「ん? ……さてはなにかつまんできたな?」
「いいえ。どちらかと言えば、空腹に近いかな」
「ああ、分かった。渋柿じゃないか疑ってるんだろう? 案外美味いぞ。なんなら俺が味見したのを食べればいい」
「君が嘘をついて、渋いものをよこすかもしれないのに?」
「俺はそんなことはしない!」
「ええ、分かってます。冗談ですよ、九郎」
 弁慶が朗らかに言うも、九郎の機嫌はすっかり損なわれてしまっていた。
「じゃあ一体何なんだ?」
 これ以上焦らすと、既に寄っている眉間の皺が更に増えそうだ。弁慶は正直に答えることにした。
 とは言っても、これで九郎に笑顔が戻るのかも怪しいのだけど。
「君、昔言ったじゃないですか」
「何を」
「『この柿がいつか実をつけてもお前にだけは絶対にやらん!』って」
 今から…八年ほど前。弁慶と九郎が平泉に来て最初の秋。
 九郎は柿が好きだけれど……柿だけでなく、果物ならたいてい、九郎は好んで食べるけれど、当時の彼はとにかく柿が好きだった。
 ちょうど高館の屋敷の向かいに立派な柿の木が数本生えていたこともあって、九郎は毎日、朝も昼も夜も柿を食べていた。
 挙句、『もしや種を植えたら木が生えてくるのでは』と、九郎は庭に勝手に種を植えはじめた。
 その一本がまさに、今二人の前にあるこの木だ、間違いなく。
 いわば、思い出の木。
 けれど、思い出は楽しいものばかりではなく。
「忘れてしまったみたいですね、君は」
 今となっては微笑ましい話だ。けれどその頃の弁慶は、ひがな一日庭を耕し種を植えていた九郎の行動に心底呆れていたのだ。だっておかげで九郎は全く人の話を聞かなくなったし、なによりそんな適当に生えたら苦労しない。
 だから言った。
「『柿と僕と、どっちが大切なんですか?』」
 と、当時恋仲でもなんでもなかったのに言った。ある程度見知った人間にそう言われて素直に柿を選べる九郎ではない、これで少しはマシになるだろうと思っていた打算もあった。
 けれど九郎は即答だった。
「そんな僕の言葉に君は、『もしこの木が実をつけてもお前にだけはやらん!』って言ったのに、覚えてないんですね」
 過去の九郎はそう叫んだあと、やけになってますます庭を耕していた。とにかくむきになっていたのを覚えている。
 けれど、今の九郎は違う。わざと拗ねた目で弁慶が見上げると、思い出したのか、一気に顔を赤らめたじろいだ。
「それは、お前がいきなり変なことを言ったから!」
「変なこと?」
「そうだ!なんで柿とお前と比べるんだ、おかしいだろ」
「そうやって君の純真さにつけこんで柿を諦めさせようとしたこと、大人気なかったな、とは、今では思いますけどね。もしかしてあの頃には既に、僕は君に恋をしていたのかな。でもまさか、君が柿を選ぶなんて思わなかったですけどね」
「いや、そうじゃなくて、」
 微笑む弁慶に負けじと、九郎は照れながらも拳を握り、なにか言い繕うべく必死だった。
「そうじゃなくて?」
「だから俺はっ!」
 でも、そんな彼を遠くから呼ぶ声が二人に届いた。
「九郎さーんどこですか九郎さーーん!」
「望美か」
「ですね。随分焦っているみたいだ」
 その上、声はかなり近い。何気なくそちらを見る。足音までかすかに響いてきた。
 これは話はここまでだろう。やむを得ない。特段、続けたい話でもなかったし。
 九郎もそう思ったのか、立ちあがる気配がした。ので、弁慶は振り返る。
「はやく行ってあげて…」
 けれどそれを九郎が遮った。
「弁慶」
 ちょうど振り向いた時だった。目の前に屈んだ九郎がいた。そしてそのままくちづけられた。
 重なる感触はわずかだった。味わう間も、惜しむ間すらなく九郎は離れ、
「忘れてるのはお前の方だ」
とだけ言い残し、呼ばれている割には急ごうともせずに離れていった。
 すぐに、部屋ひとつ向こうあたりで九郎と望美の会話が聞こえはじめた。どうやら夕飯の買い出しの話らしい。
 でも弁慶はそれを聞く気には今はなれるはずなく。
「忘れている? ……僕が?」
 九郎が座っていた方を見たままに呟いてしまう。
 あの時、それ以上のなにかがあっただろうか? けれど九郎がああもまで言うのなら、何かあるのだろう、
でも、思い出せない。
 おもむろに、九郎が置き去りにした柿をひとつ、手にとった。皮が適度にしっとりしていて、甘味も足りていそうだ。
「柿と僕と、どっちが大事なんですか……ねえ?」
 過去の九郎の身代わりに、柿に問いかける。還るはず無い返事を待ち、柿を高くに放りながら自嘲する。
「……本当に僕も」
 若かった。言いかけた。
 でもぱしりと柿が弁慶の手の平へ戻ってきた瞬間、思い出した。
「…………」
『柿とお前と比べる方がおかしい!』
 さっきの九郎の言葉。と同時に、過去の九郎の言葉。
『俺がお前と何かを比べられると思ってるのか、お前は!』
 と怒って、そんなこと言うなら柿はやらんと言い出したのだった、そういえば。
 当時は恋仲でもなく、ましてや互いにただの友人としか思ってなかったはずの彼に、だ。無意識にくちびるに指が伸びる。
「…………ああ、本当に僕は」
 大きく息を吐きながら、九郎の腰掛けていたあたりを見下ろし、言葉を零した。
 しばらくそうした後、目を細めつつ弁慶は再び柿の木に顔を向ける。
 秋の日差しが庭に落ちる。眺めながら、手の中の柿の実にがぶりと歯をたてた。




桃栗三年柿八年

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