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「いやだ」
と、なおも頑なに否定する九郎の声が北陸の地にこだまして、林で休んでいた鳥たちが一斉に羽ばたいた。
もう何度目になるか分からぬやりとりだ。弁慶が眉をつりあげるのも含めて、数え切れないほどにのぼっている。
「本当に目先の事しか見ないんですね君は」
「お前は負けを認めたくないだけだろ」
「それは君です。失礼です。僕は、僕たちの身を守る為に言ってるのに」
「でもまだ日は落ちてない。もう少し歩けば、宿には届かなくても家はあるかもしれないじゃないか、って、俺もさっきから言っている」
「あるかもしれない、けど、ないかもしれない。だったら今、この林の中で野営の支度を始める方が無難です。そもそも昨日君が水遊びなんてしていたから間に合わなくなってしまったのではないですか」
「お前だって今日の昼に呑気に木の実を採ってたじゃないか」
「君が武士のくせに弓も使えないから、代わりに食料を調達したんです」
「嘘つけ。取ってきたうちの半分しか食べてないじゃないか。薬草を集めるついでに食料をとってきたに決まってる!」
「残りは保存食です。またいつ飢えることになるか分かりませんからね」
「前も食べたあれだろう? あれは嫌いだ。腹も膨れないし。俺は食べない」
「へえ、さすが御曹司殿ですね。不味い食べ物は口にできないというんですね、庶民はこれを食べて飢えをしのいでいるんですよ」
「ああ不味いぞ。不味い。だってお前、薬草と一緒に入れるじゃないか。あんな臭いもの食えるか! お前のせいだ!」
「だったら、そもそもこれを食べなきゃいけないのも、宿に間に合わなかったのも、君のせいです」
「うるさい!」
そして、言い負かされた九郎がそっぽを向くのもいつものことだった。いくら弁慶とはいえ、それが何度目かと数える趣味はないけど、一日一度は見てる気がする。
でもなお弁慶の心は晴れない。晴れるもんか。だってどうせ、九郎からすれば、弁慶が面倒なこと言ってる、性格も口も悪い、くらいにしか思ってないことなんて明白だったのだから。
九郎が、俺が悪かったって言わなきゃもはや気がすまないだろう。少なくとも今日は。
彼とは最初からずっとこんなだった。
そもそも初対面からして、互いの徒党が衝突したのがきっかけだ。敵対しない方がおかしかった。朝も昼も夜も関係なく、顔を合わせればたいてい何らかの形でやりあっていた。稀に、平和的な会話をかわすこともあったけど、別れる前にはやっぱりいがみ合っていた。
一応、自分の性格が悪くひねくれていると自負していた弁慶だったので、気にくわない相手などそこらじゅうにいたけど、こんなにもいちいち腹立たしい人間は他にいなかった。どうしてか、彼が口にする事がなにもかも気に食わないのだった。常に調子を狂わされてるような錯覚に陥る。否、きっと錯覚じゃなくて事実。
そんな彼とどうして二人で旅などしているのか、といえば、それこそ偶然の一致、としか言えなかった。
ある日……日常的すぎて内容までは思い出せなかったけど、いつものように京の五条のあたりで言いあっていたときに、九郎を知るという商人が、彼を訪ねてやってきた。
流れで、弁慶も彼の話を一緒に聞いたのだけれど、
商人は告げた。平泉という街があること、そこの当主が様々に人材を集めていることを。
話が終わるやいなや「行きたい!」と、弁慶は身を乗り出していた。ただし、九郎も全く同時に。
……なんていう、たったそれだけのことで。
どうせ行くなら一緒の方が効率がいい、という九郎の提案に、確かにそれはその通りだ、と納得してしまった弁慶は、二つ返事で頷いてしまった。
のを、後悔したのは京を北に出てすぐだった。
やはり京を離れても、九郎は九郎で、ことごとく弁慶と意見が食い違った。
すべて、どうでもいい些細なことで…たとえば歩く速度が違った、食べ物の好みが違った。食事をとる時間も違った。先生の教えだとか言って必ず夜に明日の備えをしておく九郎に対して、弁慶は朝簡素にそれを終わらせる。
だから行動がずれるし、そもそも寝る時の枕の向きまで違う。弁慶が飛ぶ鳥を眺めて目を細めていれば九郎は射抜こうとするし、せっかく珍しい薬草があったのに、それも踏みつぶされた。
共に過ごす時間が長くなるにつれ……というほど、まだ日数は経っていないはずだけど、だんだんに弁慶は自分の感じるずれ、の正体が分かってきた。
多分、弁慶と九郎は、本当のところ、そう相性が悪くないんだ、多分。本当に嫌なら、顔を合わせるたびに話なんてしないし、平泉に行きたいと同時に言い出したりするのだろう。だけど、性格が違いすぎる。九郎は言動の全てが常に行きあたりばったりすぎる。だから調子や予定を崩される。
そのくせ、剣の師、という人物のおかげなのか、はたまた余程鞍馬で大事にされてきたのか、源氏の御曹司らしい育ちの良さは窺えるし、……本人無自覚に決まってるけど慎みはあるし、根は素直で礼儀は良い。美徳だろう。でも弁慶には更に面白くない、というか、それも相俟っていまいち九郎という人間をつかみ切れない気がして、そう、釈然としない。
互いを隔てる溝は埋まらない。
昨日もそうだった。
昨日は、海沿いの道を歩いていた。とても晴れた日で、海の光がきらきらと、空の光を跳ね返していた。水は澄んで綺麗で、泳ぐ魚がまた銀色に光っていた。
それは弁慶から見ても紛れもなく、難をつけるのも無粋なほどに美しい景色だった。九郎と違い、今までほとんど海をみたことがなかった訳じゃないけれどこんなにも美しい海は稀だった。
だからといって、そこでゆっくりできる行程ではなかった。でも弁慶の言葉に聞く耳持たず、九郎は夢中になって魚を釣った。そのせいで、どう考えても宿をとるつもりだった街まで辿りつけなくなってしまった。
それだけでも弁慶からすれば腹立たしかったのに、挙句、どうせ間に合わないならこの海の近くで寝よう、と、海沿いすぐの岩場の上を指さして言いだしたのだ、九郎は。
最終的に、落ちたら危ない、波の満ち引きもあるし風もある。そもそもそんな目立つ所、何かに襲われたらたまったものじゃない、という至極真っ当な弁慶の言葉に、九郎もしぶしぶと撤退したけど、本当にしぶしぶで、無粋だもったいない夜の海も見たかったと延々と夜眠るまで繰り返された。朝になったらすっかり忘れてるのがまた腹立たしい。
それを踏まえて、今日のこれ。
昨日の件があったから、今こんなに揉めている。
「とにかく、昨日は俺が譲ったんだから、今日はお前の番だ、弁慶」
なのに、九郎は胸を張って言った。そんなの飲んでたまるかと弁慶は思った。
「順番で片づける問題じゃないです。そもそも、なんで君はそんなに先を急ぎたいんですか」
「決まってる。早く平泉に行って、一刻も早く立派な武士になるんだ」
「昨日のんびりしてたくせに。それに、そもそも源氏の、君の兄上だってまだ」
「あにうえを侮辱するな!」
九郎は本当に終始兄上兄上、だ。
源氏の御曹司だろうがなんだろうが、家の名を守ろうとする、その姿勢は、どちらかといえば好ましい。
だけどそれと平泉に一刻も早く行くことは関係ない。彼や、彼の兄は未だ日蔭者だという現状を抜きにしても、今まで散々京で過ごしてきた日々に比べれば、一日二日なんて変わらないというのに。
「そんなに焦ってもいいことないですよ」
「焦ってなどいない」
「知らないんですか? 焦ってる人を見分けるのは簡単なんですよ、髪が逆立ってますから」
「!?」
言葉に、九郎がはっと目を見開いて、自分の頭をわたわたと撫でまわす。単純だ。
その隙に、弁慶は目を細め、街道から一歩二歩と足を踏み出す。もちろん、野営の準備を始めるためだ。けど、
「弁慶、だましたな!」
声と同時に、弁慶の体が傾いた。
九郎が体当たりしてきたのだ。どさり、と、二人まとめて草の中に転がった。
「九郎、君は!」
どこまでこちらを怒らせれば気がすむんだと、自分の嘘を棚に上げて弁慶はのしかかる九郎を膝で蹴り飛ばそうと足に力を込めながら睨みあげた。
だけど、予想に反して九郎の顔は真剣そのものだった。
「九郎?」
「静かに」
顔を近づけ、九郎は囁く。それはまるで押し倒され愛でも囁かれているような体制だったけど、相手が九郎、色気も何もなく、それより弁慶は九郎の変貌が気になった。
答えはすぐに彼が告げた。
「誰かいる」
「誰か……?」
言葉に耳をそばだてる、と、確かに声がする。低い男の声、複数、それを配置する手筈、二人を囲む足音。
物取りだ。全然気付かなかった。しかもかなり多い。
「ほら、ここじゃ危険だっただろう」
「今はそれどころではありません」
「痛っ」
九郎の長い後ろ髪をぐい、とひきながら、弁慶は短く告げた。
「幸い僕たちはさっきまで喧嘩をしていた」
「喧嘩…? 別に俺は喧嘩なんか」
「そういうのはどうでもいいです。とにかく、それを利用しましょう」
「というと?」
「敵は多分、10人ほどかと。君と僕とが組めばどうにかなるかもしれない。ですが、相手の姿をまだ見てない今、十分とは言えません」
「そんなことない!」
「静かにしてください。……だから、相手の不意をつきましょう。僕はいったん、君から離れます。そして、敵の背後を狙います。いいですね」
「……囮になればいいんだな。分かった」
弁慶の言葉に九郎は小さく頷いた。すぐさま弁慶は立ち上がった、そして未だ腰を落としまたまの九郎にきっぱりと、冷たく言った。
「いくら金を積まれても、君みたいな分からず屋とは一緒に旅をできません。護衛はここまでです。さようなら」
そして纏う衣を翻し、草を踏み分け、森の中、街道の先へと進んで行った。
歩きながら思案する。
どうやって九郎を囲む賊を倒すか、なんてことではない。けれど……、
今は「そっち」を実行することはやめ、九郎の姿を確認するために、足音をめいいっぱい忍ばせて来た道を戻った。
林から飛び出しながら、弁慶は思い切り賊の一人を薙ぎ飛ばした。
「騙し打ちか!」
賊が、なおも薙刀を振りかぶる弁慶を振り返りながら切りあげる。がつん、と、弁慶の撃は阻まれた。とっさに距離を開ける。賊が勢いつけて弁慶に飛びかかる。近い。久しぶりの実戦にひやりと汗が伝う、けれど、弁慶が薙刀を握りなおすより早く、後ろから飛び出す影。
「しまっ」
賊は慌てて身構えたけれど、最後まで紡がれることなく、九郎の鞘ごとの一閃で阻まれ、地に落ちた。
あっけないことに、それで最後だった。
「……驚いた。知ってはいましたけれど、君は本当に強いですね」
「お前が遅いのが悪い」
薙刀をおろしながら見渡す弁慶に、九郎は特に威張るでもなく返した。
結局弁慶が倒したのは一人だけ。これだったら、九郎が言った通りにここで二人で迎え撃っても良かったかもしれない。
「これでも、お前の分を残しておこうと思って、少しは手を抜いたんだ」
「油断は大敵ですよ」
と、この現状で言っても説得力はないか。九郎は息さえ整ったままだった。
……確かに彼は強いけれど、こんなにも、強かったか?
訝しんで弁慶は彼の顔を覗き込む。なにか、見慣れぬ顔をしている、気がしたのも束の間。何かを振り払うように、九郎は大きく頭を振った。長い髪が彼の背に戻った時には、九郎はいつもの様子にすっかり戻っていた。
「とにかく、ここを離れよう」
「…そうですね」
念のため、賊の持ってた獲物をひととおり抱え、ぽい、と、少し遠くの藪の中に掘り投げてから、二人は再び、少し足早に街道を進み始めた。
「結局、今日はどうする?」
道すがら、結局うやむやになったままの問題を、九郎から提示した。
だけど弁慶は全然関係ないことを九郎に聞いた。
「その前に、聞きたいことがあるんです……ってなんで嫌そうな顔をしているんですか」
「お前がそういうことを言うときはたいてい嫌なことなんだ」
「失礼です。僕は特段、面倒な事を聞いているつもりはありません。九郎が考えなさすぎなだけです」
「いいからさっさと言え」
九郎は更に膨れたけど、短気な彼をこれ以上怒らせるのはそれこそ面倒だ。お言葉に甘えて弁慶は単刀直入に問いかけることにした。
「なんで君は囮になったんですか?」
それに九郎は足を止めた。
「なんでって、お前が言ったことじゃないか」
「ええ。そうです」
弁慶も倣い、続ける。
「でも、僕が君を見捨てて一人で先に行くと、考えなかったんですか? もしくは、賊に襲われている君に、僕は襲いかかったかもしれない。君が率先したのではなく、囮になれ、と、君に言ったのは僕なのだから」
現に、弁慶はそう考えた。そうしなかったのはただ、今こうして彼の回答を聞きたかった、それだけの理由に過ぎない。
「それは……」
「そもそも、囮になるなら本来僕の方がよかったと、君は思ったんじゃないですか? 君は素早い。だから外から撹乱する役割なら、よほど君の方が効率がよかったんです。もしかしたら君は、最初から一人で全員倒すつもりだった、のかもしれないけれど」
でも、九郎は弁慶を待っていたし、「囮」と自らを称していた、ゆえに、敵との実力差はおそらく結果的なものなはずだった。
だから問う。理由を尋ねる。
「どうして?」
九郎はいくらか黙った。試されている、とでも感じたのかもしれない。
けれどそれとは裏腹に、紡いだ声音は普段通りの彼だった。
「負けず嫌いなお前が、俺に勝つためだけにそんな汚い真似をするわけない」
「言い切りますね」
また考えなしに発言してる。浅はかさに、弁慶の口元は醜くゆがむ。けどそれはつかの間のこと。
「当たり前だ。でも確かに、囮はお前がやったほうがいいんじゃないかとは思ったけど、でも、お前がああも言い切るから、それでいいんだろうって思った」
「だから、どうして」
「少しは考えろ。そんなの、お前を信じてるからに決まってるじゃないか」
なおもふてくされたまま言う九郎を、弁慶はきょとんと、見つめてしまった。
「なっなんだ? まだ疑ってるのか?」
「いいえ……」
とっさに二の句が浮かばない。多分、九郎相手に言葉を失ったのは、はじめてだ。だって。
「……君は、僕を信じていたんですか?」
素直に問うと、九郎まで目を見開いて驚いた。
「信用できない奴とこんなとこまで一緒に旅などできるはずないじゃないか」
お前は違うのか? と、心底不思議そうに、九郎は言う。
そんな彼の瞳に、いよいよ弁慶は、感情の全てを奪われ失っていくようで、そして。
「ってことがあったんですよ」
と、にっこりと、弁慶がもう10年近くも前の懐かしい、大切な思い出を語り終えると九郎は、彼が剣を振るう時の切先の如き速さで顔をしかめた。
「嘘だ」
「酷いな、君は」
「だって覚えてない」
「僕、とても嬉しかったのに。君が僕に、そんな風に好意を抱いてくれていたなんて、あの頃は思ってもいなかったですからね。あの事件がなかったら、もしかしたら今僕はここにいないかもしれないし」
……とはいえ、九郎はなにかを企んでいたわけじゃなく本心を告げただけなのだから、どのみち別の機会に同じような会話をして、結局今の関係に収まっていた可能性の方がはるかに高そうだ、と思ったけれど、黙っておくことにした。
そんな弁慶に、九郎は至って訝しそうに首をかしげる。
「好意って……まるで自分は違ってたみたいな言いぶりだな。だったらなんで、お前は俺と平泉に行くことにしたんだ?」
「ああ、それは」
正直、あの当時の九郎なんてどうにでも出しぬける自信がありましたから、というのが本音だったけど、それは隠して、
「運命みたいなものでも感じていたんですよ、きっと」
と、なおもにこにこと、小卓に頬杖ついて弁慶はすらすらと答えた。
「それこそ嘘だろ」
けど、珍しく見抜かれた。それにわざとらしく弁慶は顔を曇らせてみせる。
「……あの時の、お前を信じてる、っていう君の言葉、本当に嬉しかったのにな。大人になった君はもう、僕の事を信じてはくれないんですね」
……ああでも、そういえばあの時、「信じてない奴と旅するか!」と九郎が言った直後は、またそうやって後先考えずに思いついたことを言わないでくださいだから君は、とか、喜ぶより先に憤り否定してたような気もするな、なんて思い出しつつも、終わりよければすべてよし、だろう。黙って九郎を見つめると、彼は当時と変わらぬ調子で躊躇いなく口にする。
「今だって、お前の事は信じてる、でも、お前の言う事を鵜呑みにできるはずがないだろう。そもそも、お前にとって大切な想い出、の方を否定してるんじゃない、俺がそんなに馬鹿なことばかり言っていたとは思えない、の方を疑ってるんだ」
「そうですか。では、僕の君への想いは受け取ってもらえるんですね?」
「それはっっ、まあ…」
そんな彼に、彼の言葉に、弁慶は満たされる。
「信じる」なんて、当時の弁慶からしたら薄っぺらい言葉でしかなかったはずだった。あやふやで、ありふれた誤魔化しに似た言葉。実際、九郎がさらっと口にした時だって、弁慶の知りたかった核心をうやむやにされたような気ばかりがした、
けれど面と向かって言われたそれは悪くなかった。
けれど、弁慶の中でこのやりとりが、記憶に鮮明に残っているのは、残されているのは結局のところ、そんな甘かったり、少し悔しかったりするような感情ではなく……、
受け取ったのは、言うなれば覚悟だった。
と、思ったのはあの時からしばらくしたいつだったか。林の中で賊に囲まれた時の事をふと思い返していた時だった。
今も昔も、九郎の紡ぐ言葉は彼の感情に大きく起因している。のは間違いじゃないけど、だけど、九郎にはいつでもたぶん、自覚があった。
源氏の御曹司としての自覚。家の名を背負い平家を倒すという意思。重さ。
ゆえに……本人がどれだけ意識しているかは別として、なにが起きても九郎は源氏の名を捨てることはできない、という強い想いを彼は常に持っていたのではないだろうか、と、思ったのだ、それこそ、野盗に囲まれ囮を引き受けた時、理不尽なまでに強かったあれのように。こんな所で朽ちてはいけないと九郎は心に決めていたのだと思う。そして、もし仮に、弁慶に刃を突き付けられることがあったとしても、返り討ちにする、それだけの気負いがあったのだろう、すべて無意識の下のものだったとしても。
弁慶は見誤っていたのだ、彼を。
そういえば、九郎は時として意思の強い目をしていた。それは彼が意地っ張りだからだと思い込んでいたけれど、そうではなく、
彼にはそうする理由が、それこそ弁慶と最初に出会った時には既にあったのだ、ただひねくれていただけの弁慶とは違って。
目の前が開けたような感覚に陥った。と同時に打ちのめされたので、今でも思い出すたび苦々しくもあるのだけれど、
でも多分、あの過去を通過していなかったら今ここに、間違いなく弁慶はいない。
だからといって、彼とのやりとりが極端に改善した、なんて都合よくはいかない。当たり前に対立は続く。旅路の最中だろうと戦略の事だろうと、口づけをかわす時だろうと変わらない。
その度に九郎は怒り、笑い、時に俯き戸惑う、けれど、
九郎は結局迷わない。
ひとしきり九郎の動揺を堪能した後、弁慶は再び問う。
「……君は、昔も今も、僕のことを信じてくれているんですね。嬉しいけれど、いいんですか? 今度こそ、君を囮にして僕は逃げるかもしれない」
軽口叩くような気軽さの弁慶に、九郎はあの日と同じ口調で答えた。
「したければしろ」
「言い切りますね」
「言い切るさ。お前は俺の軍師なんだろう?」
「ええ」
それは、彼にとっては不幸だろう。でも、弁慶にとっては幸運だった。
すべては、九郎が最初から源氏の御曹司だったのと同じように、彼に最初に見えた時から定められていたものなのかもしれない。
「今も昔も、お前は回りくどいな、と、お前の話のせいで俺も思い出した」
何を今更、身構えて損した、と、言いたげに九郎はつまらなそうに息を吐く。も、再び弁慶を見るなり驚いた。
「……そんなに嬉しいのか?」
弁慶はごく素直に返した。
「勿論です。……ありがとう、九郎」
「変な奴だな」
九郎はなおも訝しげだった。それでも、これ以上会話を続けることに飽きたのだろう、景時におすそ分けしてもらった柿をひとつがぶりとかじって会話を終わらせた。
彼と、ただ見つめる弁慶の間を、すっかり冷えた京の秋風が通り抜ける。
今度こそ、この先は裏切りだ。源氏に対してのものではなく、九郎への、彼の綴るまっすぐな好意に対しての。それでも、
それでも確かに、彼へのこの想いは恋だった。と、信じている。
信じるどうこうって歌を聞いてたら書きたくなっちゃいましたけどかききれてない
あげくたぶん似たようなこと書いたことあるような気しかしないのだけどこれはこれで
書いたらすみやかに書いたことを忘れていく方なのでなにを書いたか覚えていない
と、なおも頑なに否定する九郎の声が北陸の地にこだまして、林で休んでいた鳥たちが一斉に羽ばたいた。
もう何度目になるか分からぬやりとりだ。弁慶が眉をつりあげるのも含めて、数え切れないほどにのぼっている。
「本当に目先の事しか見ないんですね君は」
「お前は負けを認めたくないだけだろ」
「それは君です。失礼です。僕は、僕たちの身を守る為に言ってるのに」
「でもまだ日は落ちてない。もう少し歩けば、宿には届かなくても家はあるかもしれないじゃないか、って、俺もさっきから言っている」
「あるかもしれない、けど、ないかもしれない。だったら今、この林の中で野営の支度を始める方が無難です。そもそも昨日君が水遊びなんてしていたから間に合わなくなってしまったのではないですか」
「お前だって今日の昼に呑気に木の実を採ってたじゃないか」
「君が武士のくせに弓も使えないから、代わりに食料を調達したんです」
「嘘つけ。取ってきたうちの半分しか食べてないじゃないか。薬草を集めるついでに食料をとってきたに決まってる!」
「残りは保存食です。またいつ飢えることになるか分かりませんからね」
「前も食べたあれだろう? あれは嫌いだ。腹も膨れないし。俺は食べない」
「へえ、さすが御曹司殿ですね。不味い食べ物は口にできないというんですね、庶民はこれを食べて飢えをしのいでいるんですよ」
「ああ不味いぞ。不味い。だってお前、薬草と一緒に入れるじゃないか。あんな臭いもの食えるか! お前のせいだ!」
「だったら、そもそもこれを食べなきゃいけないのも、宿に間に合わなかったのも、君のせいです」
「うるさい!」
そして、言い負かされた九郎がそっぽを向くのもいつものことだった。いくら弁慶とはいえ、それが何度目かと数える趣味はないけど、一日一度は見てる気がする。
でもなお弁慶の心は晴れない。晴れるもんか。だってどうせ、九郎からすれば、弁慶が面倒なこと言ってる、性格も口も悪い、くらいにしか思ってないことなんて明白だったのだから。
九郎が、俺が悪かったって言わなきゃもはや気がすまないだろう。少なくとも今日は。
彼とは最初からずっとこんなだった。
そもそも初対面からして、互いの徒党が衝突したのがきっかけだ。敵対しない方がおかしかった。朝も昼も夜も関係なく、顔を合わせればたいてい何らかの形でやりあっていた。稀に、平和的な会話をかわすこともあったけど、別れる前にはやっぱりいがみ合っていた。
一応、自分の性格が悪くひねくれていると自負していた弁慶だったので、気にくわない相手などそこらじゅうにいたけど、こんなにもいちいち腹立たしい人間は他にいなかった。どうしてか、彼が口にする事がなにもかも気に食わないのだった。常に調子を狂わされてるような錯覚に陥る。否、きっと錯覚じゃなくて事実。
そんな彼とどうして二人で旅などしているのか、といえば、それこそ偶然の一致、としか言えなかった。
ある日……日常的すぎて内容までは思い出せなかったけど、いつものように京の五条のあたりで言いあっていたときに、九郎を知るという商人が、彼を訪ねてやってきた。
流れで、弁慶も彼の話を一緒に聞いたのだけれど、
商人は告げた。平泉という街があること、そこの当主が様々に人材を集めていることを。
話が終わるやいなや「行きたい!」と、弁慶は身を乗り出していた。ただし、九郎も全く同時に。
……なんていう、たったそれだけのことで。
どうせ行くなら一緒の方が効率がいい、という九郎の提案に、確かにそれはその通りだ、と納得してしまった弁慶は、二つ返事で頷いてしまった。
のを、後悔したのは京を北に出てすぐだった。
やはり京を離れても、九郎は九郎で、ことごとく弁慶と意見が食い違った。
すべて、どうでもいい些細なことで…たとえば歩く速度が違った、食べ物の好みが違った。食事をとる時間も違った。先生の教えだとか言って必ず夜に明日の備えをしておく九郎に対して、弁慶は朝簡素にそれを終わらせる。
だから行動がずれるし、そもそも寝る時の枕の向きまで違う。弁慶が飛ぶ鳥を眺めて目を細めていれば九郎は射抜こうとするし、せっかく珍しい薬草があったのに、それも踏みつぶされた。
共に過ごす時間が長くなるにつれ……というほど、まだ日数は経っていないはずだけど、だんだんに弁慶は自分の感じるずれ、の正体が分かってきた。
多分、弁慶と九郎は、本当のところ、そう相性が悪くないんだ、多分。本当に嫌なら、顔を合わせるたびに話なんてしないし、平泉に行きたいと同時に言い出したりするのだろう。だけど、性格が違いすぎる。九郎は言動の全てが常に行きあたりばったりすぎる。だから調子や予定を崩される。
そのくせ、剣の師、という人物のおかげなのか、はたまた余程鞍馬で大事にされてきたのか、源氏の御曹司らしい育ちの良さは窺えるし、……本人無自覚に決まってるけど慎みはあるし、根は素直で礼儀は良い。美徳だろう。でも弁慶には更に面白くない、というか、それも相俟っていまいち九郎という人間をつかみ切れない気がして、そう、釈然としない。
互いを隔てる溝は埋まらない。
昨日もそうだった。
昨日は、海沿いの道を歩いていた。とても晴れた日で、海の光がきらきらと、空の光を跳ね返していた。水は澄んで綺麗で、泳ぐ魚がまた銀色に光っていた。
それは弁慶から見ても紛れもなく、難をつけるのも無粋なほどに美しい景色だった。九郎と違い、今までほとんど海をみたことがなかった訳じゃないけれどこんなにも美しい海は稀だった。
だからといって、そこでゆっくりできる行程ではなかった。でも弁慶の言葉に聞く耳持たず、九郎は夢中になって魚を釣った。そのせいで、どう考えても宿をとるつもりだった街まで辿りつけなくなってしまった。
それだけでも弁慶からすれば腹立たしかったのに、挙句、どうせ間に合わないならこの海の近くで寝よう、と、海沿いすぐの岩場の上を指さして言いだしたのだ、九郎は。
最終的に、落ちたら危ない、波の満ち引きもあるし風もある。そもそもそんな目立つ所、何かに襲われたらたまったものじゃない、という至極真っ当な弁慶の言葉に、九郎もしぶしぶと撤退したけど、本当にしぶしぶで、無粋だもったいない夜の海も見たかったと延々と夜眠るまで繰り返された。朝になったらすっかり忘れてるのがまた腹立たしい。
それを踏まえて、今日のこれ。
昨日の件があったから、今こんなに揉めている。
「とにかく、昨日は俺が譲ったんだから、今日はお前の番だ、弁慶」
なのに、九郎は胸を張って言った。そんなの飲んでたまるかと弁慶は思った。
「順番で片づける問題じゃないです。そもそも、なんで君はそんなに先を急ぎたいんですか」
「決まってる。早く平泉に行って、一刻も早く立派な武士になるんだ」
「昨日のんびりしてたくせに。それに、そもそも源氏の、君の兄上だってまだ」
「あにうえを侮辱するな!」
九郎は本当に終始兄上兄上、だ。
源氏の御曹司だろうがなんだろうが、家の名を守ろうとする、その姿勢は、どちらかといえば好ましい。
だけどそれと平泉に一刻も早く行くことは関係ない。彼や、彼の兄は未だ日蔭者だという現状を抜きにしても、今まで散々京で過ごしてきた日々に比べれば、一日二日なんて変わらないというのに。
「そんなに焦ってもいいことないですよ」
「焦ってなどいない」
「知らないんですか? 焦ってる人を見分けるのは簡単なんですよ、髪が逆立ってますから」
「!?」
言葉に、九郎がはっと目を見開いて、自分の頭をわたわたと撫でまわす。単純だ。
その隙に、弁慶は目を細め、街道から一歩二歩と足を踏み出す。もちろん、野営の準備を始めるためだ。けど、
「弁慶、だましたな!」
声と同時に、弁慶の体が傾いた。
九郎が体当たりしてきたのだ。どさり、と、二人まとめて草の中に転がった。
「九郎、君は!」
どこまでこちらを怒らせれば気がすむんだと、自分の嘘を棚に上げて弁慶はのしかかる九郎を膝で蹴り飛ばそうと足に力を込めながら睨みあげた。
だけど、予想に反して九郎の顔は真剣そのものだった。
「九郎?」
「静かに」
顔を近づけ、九郎は囁く。それはまるで押し倒され愛でも囁かれているような体制だったけど、相手が九郎、色気も何もなく、それより弁慶は九郎の変貌が気になった。
答えはすぐに彼が告げた。
「誰かいる」
「誰か……?」
言葉に耳をそばだてる、と、確かに声がする。低い男の声、複数、それを配置する手筈、二人を囲む足音。
物取りだ。全然気付かなかった。しかもかなり多い。
「ほら、ここじゃ危険だっただろう」
「今はそれどころではありません」
「痛っ」
九郎の長い後ろ髪をぐい、とひきながら、弁慶は短く告げた。
「幸い僕たちはさっきまで喧嘩をしていた」
「喧嘩…? 別に俺は喧嘩なんか」
「そういうのはどうでもいいです。とにかく、それを利用しましょう」
「というと?」
「敵は多分、10人ほどかと。君と僕とが組めばどうにかなるかもしれない。ですが、相手の姿をまだ見てない今、十分とは言えません」
「そんなことない!」
「静かにしてください。……だから、相手の不意をつきましょう。僕はいったん、君から離れます。そして、敵の背後を狙います。いいですね」
「……囮になればいいんだな。分かった」
弁慶の言葉に九郎は小さく頷いた。すぐさま弁慶は立ち上がった、そして未だ腰を落としまたまの九郎にきっぱりと、冷たく言った。
「いくら金を積まれても、君みたいな分からず屋とは一緒に旅をできません。護衛はここまでです。さようなら」
そして纏う衣を翻し、草を踏み分け、森の中、街道の先へと進んで行った。
歩きながら思案する。
どうやって九郎を囲む賊を倒すか、なんてことではない。けれど……、
今は「そっち」を実行することはやめ、九郎の姿を確認するために、足音をめいいっぱい忍ばせて来た道を戻った。
林から飛び出しながら、弁慶は思い切り賊の一人を薙ぎ飛ばした。
「騙し打ちか!」
賊が、なおも薙刀を振りかぶる弁慶を振り返りながら切りあげる。がつん、と、弁慶の撃は阻まれた。とっさに距離を開ける。賊が勢いつけて弁慶に飛びかかる。近い。久しぶりの実戦にひやりと汗が伝う、けれど、弁慶が薙刀を握りなおすより早く、後ろから飛び出す影。
「しまっ」
賊は慌てて身構えたけれど、最後まで紡がれることなく、九郎の鞘ごとの一閃で阻まれ、地に落ちた。
あっけないことに、それで最後だった。
「……驚いた。知ってはいましたけれど、君は本当に強いですね」
「お前が遅いのが悪い」
薙刀をおろしながら見渡す弁慶に、九郎は特に威張るでもなく返した。
結局弁慶が倒したのは一人だけ。これだったら、九郎が言った通りにここで二人で迎え撃っても良かったかもしれない。
「これでも、お前の分を残しておこうと思って、少しは手を抜いたんだ」
「油断は大敵ですよ」
と、この現状で言っても説得力はないか。九郎は息さえ整ったままだった。
……確かに彼は強いけれど、こんなにも、強かったか?
訝しんで弁慶は彼の顔を覗き込む。なにか、見慣れぬ顔をしている、気がしたのも束の間。何かを振り払うように、九郎は大きく頭を振った。長い髪が彼の背に戻った時には、九郎はいつもの様子にすっかり戻っていた。
「とにかく、ここを離れよう」
「…そうですね」
念のため、賊の持ってた獲物をひととおり抱え、ぽい、と、少し遠くの藪の中に掘り投げてから、二人は再び、少し足早に街道を進み始めた。
「結局、今日はどうする?」
道すがら、結局うやむやになったままの問題を、九郎から提示した。
だけど弁慶は全然関係ないことを九郎に聞いた。
「その前に、聞きたいことがあるんです……ってなんで嫌そうな顔をしているんですか」
「お前がそういうことを言うときはたいてい嫌なことなんだ」
「失礼です。僕は特段、面倒な事を聞いているつもりはありません。九郎が考えなさすぎなだけです」
「いいからさっさと言え」
九郎は更に膨れたけど、短気な彼をこれ以上怒らせるのはそれこそ面倒だ。お言葉に甘えて弁慶は単刀直入に問いかけることにした。
「なんで君は囮になったんですか?」
それに九郎は足を止めた。
「なんでって、お前が言ったことじゃないか」
「ええ。そうです」
弁慶も倣い、続ける。
「でも、僕が君を見捨てて一人で先に行くと、考えなかったんですか? もしくは、賊に襲われている君に、僕は襲いかかったかもしれない。君が率先したのではなく、囮になれ、と、君に言ったのは僕なのだから」
現に、弁慶はそう考えた。そうしなかったのはただ、今こうして彼の回答を聞きたかった、それだけの理由に過ぎない。
「それは……」
「そもそも、囮になるなら本来僕の方がよかったと、君は思ったんじゃないですか? 君は素早い。だから外から撹乱する役割なら、よほど君の方が効率がよかったんです。もしかしたら君は、最初から一人で全員倒すつもりだった、のかもしれないけれど」
でも、九郎は弁慶を待っていたし、「囮」と自らを称していた、ゆえに、敵との実力差はおそらく結果的なものなはずだった。
だから問う。理由を尋ねる。
「どうして?」
九郎はいくらか黙った。試されている、とでも感じたのかもしれない。
けれどそれとは裏腹に、紡いだ声音は普段通りの彼だった。
「負けず嫌いなお前が、俺に勝つためだけにそんな汚い真似をするわけない」
「言い切りますね」
また考えなしに発言してる。浅はかさに、弁慶の口元は醜くゆがむ。けどそれはつかの間のこと。
「当たり前だ。でも確かに、囮はお前がやったほうがいいんじゃないかとは思ったけど、でも、お前がああも言い切るから、それでいいんだろうって思った」
「だから、どうして」
「少しは考えろ。そんなの、お前を信じてるからに決まってるじゃないか」
なおもふてくされたまま言う九郎を、弁慶はきょとんと、見つめてしまった。
「なっなんだ? まだ疑ってるのか?」
「いいえ……」
とっさに二の句が浮かばない。多分、九郎相手に言葉を失ったのは、はじめてだ。だって。
「……君は、僕を信じていたんですか?」
素直に問うと、九郎まで目を見開いて驚いた。
「信用できない奴とこんなとこまで一緒に旅などできるはずないじゃないか」
お前は違うのか? と、心底不思議そうに、九郎は言う。
そんな彼の瞳に、いよいよ弁慶は、感情の全てを奪われ失っていくようで、そして。
「ってことがあったんですよ」
と、にっこりと、弁慶がもう10年近くも前の懐かしい、大切な思い出を語り終えると九郎は、彼が剣を振るう時の切先の如き速さで顔をしかめた。
「嘘だ」
「酷いな、君は」
「だって覚えてない」
「僕、とても嬉しかったのに。君が僕に、そんな風に好意を抱いてくれていたなんて、あの頃は思ってもいなかったですからね。あの事件がなかったら、もしかしたら今僕はここにいないかもしれないし」
……とはいえ、九郎はなにかを企んでいたわけじゃなく本心を告げただけなのだから、どのみち別の機会に同じような会話をして、結局今の関係に収まっていた可能性の方がはるかに高そうだ、と思ったけれど、黙っておくことにした。
そんな弁慶に、九郎は至って訝しそうに首をかしげる。
「好意って……まるで自分は違ってたみたいな言いぶりだな。だったらなんで、お前は俺と平泉に行くことにしたんだ?」
「ああ、それは」
正直、あの当時の九郎なんてどうにでも出しぬける自信がありましたから、というのが本音だったけど、それは隠して、
「運命みたいなものでも感じていたんですよ、きっと」
と、なおもにこにこと、小卓に頬杖ついて弁慶はすらすらと答えた。
「それこそ嘘だろ」
けど、珍しく見抜かれた。それにわざとらしく弁慶は顔を曇らせてみせる。
「……あの時の、お前を信じてる、っていう君の言葉、本当に嬉しかったのにな。大人になった君はもう、僕の事を信じてはくれないんですね」
……ああでも、そういえばあの時、「信じてない奴と旅するか!」と九郎が言った直後は、またそうやって後先考えずに思いついたことを言わないでくださいだから君は、とか、喜ぶより先に憤り否定してたような気もするな、なんて思い出しつつも、終わりよければすべてよし、だろう。黙って九郎を見つめると、彼は当時と変わらぬ調子で躊躇いなく口にする。
「今だって、お前の事は信じてる、でも、お前の言う事を鵜呑みにできるはずがないだろう。そもそも、お前にとって大切な想い出、の方を否定してるんじゃない、俺がそんなに馬鹿なことばかり言っていたとは思えない、の方を疑ってるんだ」
「そうですか。では、僕の君への想いは受け取ってもらえるんですね?」
「それはっっ、まあ…」
そんな彼に、彼の言葉に、弁慶は満たされる。
「信じる」なんて、当時の弁慶からしたら薄っぺらい言葉でしかなかったはずだった。あやふやで、ありふれた誤魔化しに似た言葉。実際、九郎がさらっと口にした時だって、弁慶の知りたかった核心をうやむやにされたような気ばかりがした、
けれど面と向かって言われたそれは悪くなかった。
けれど、弁慶の中でこのやりとりが、記憶に鮮明に残っているのは、残されているのは結局のところ、そんな甘かったり、少し悔しかったりするような感情ではなく……、
受け取ったのは、言うなれば覚悟だった。
と、思ったのはあの時からしばらくしたいつだったか。林の中で賊に囲まれた時の事をふと思い返していた時だった。
今も昔も、九郎の紡ぐ言葉は彼の感情に大きく起因している。のは間違いじゃないけど、だけど、九郎にはいつでもたぶん、自覚があった。
源氏の御曹司としての自覚。家の名を背負い平家を倒すという意思。重さ。
ゆえに……本人がどれだけ意識しているかは別として、なにが起きても九郎は源氏の名を捨てることはできない、という強い想いを彼は常に持っていたのではないだろうか、と、思ったのだ、それこそ、野盗に囲まれ囮を引き受けた時、理不尽なまでに強かったあれのように。こんな所で朽ちてはいけないと九郎は心に決めていたのだと思う。そして、もし仮に、弁慶に刃を突き付けられることがあったとしても、返り討ちにする、それだけの気負いがあったのだろう、すべて無意識の下のものだったとしても。
弁慶は見誤っていたのだ、彼を。
そういえば、九郎は時として意思の強い目をしていた。それは彼が意地っ張りだからだと思い込んでいたけれど、そうではなく、
彼にはそうする理由が、それこそ弁慶と最初に出会った時には既にあったのだ、ただひねくれていただけの弁慶とは違って。
目の前が開けたような感覚に陥った。と同時に打ちのめされたので、今でも思い出すたび苦々しくもあるのだけれど、
でも多分、あの過去を通過していなかったら今ここに、間違いなく弁慶はいない。
だからといって、彼とのやりとりが極端に改善した、なんて都合よくはいかない。当たり前に対立は続く。旅路の最中だろうと戦略の事だろうと、口づけをかわす時だろうと変わらない。
その度に九郎は怒り、笑い、時に俯き戸惑う、けれど、
九郎は結局迷わない。
ひとしきり九郎の動揺を堪能した後、弁慶は再び問う。
「……君は、昔も今も、僕のことを信じてくれているんですね。嬉しいけれど、いいんですか? 今度こそ、君を囮にして僕は逃げるかもしれない」
軽口叩くような気軽さの弁慶に、九郎はあの日と同じ口調で答えた。
「したければしろ」
「言い切りますね」
「言い切るさ。お前は俺の軍師なんだろう?」
「ええ」
それは、彼にとっては不幸だろう。でも、弁慶にとっては幸運だった。
すべては、九郎が最初から源氏の御曹司だったのと同じように、彼に最初に見えた時から定められていたものなのかもしれない。
「今も昔も、お前は回りくどいな、と、お前の話のせいで俺も思い出した」
何を今更、身構えて損した、と、言いたげに九郎はつまらなそうに息を吐く。も、再び弁慶を見るなり驚いた。
「……そんなに嬉しいのか?」
弁慶はごく素直に返した。
「勿論です。……ありがとう、九郎」
「変な奴だな」
九郎はなおも訝しげだった。それでも、これ以上会話を続けることに飽きたのだろう、景時におすそ分けしてもらった柿をひとつがぶりとかじって会話を終わらせた。
彼と、ただ見つめる弁慶の間を、すっかり冷えた京の秋風が通り抜ける。
今度こそ、この先は裏切りだ。源氏に対してのものではなく、九郎への、彼の綴るまっすぐな好意に対しての。それでも、
それでも確かに、彼へのこの想いは恋だった。と、信じている。
信じるどうこうって歌を聞いてたら書きたくなっちゃいましたけどかききれてない
あげくたぶん似たようなこと書いたことあるような気しかしないのだけどこれはこれで
書いたらすみやかに書いたことを忘れていく方なのでなにを書いたか覚えていない
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寒い日だった。春遅い平泉とはいえ、もう花もだいぶつぼみを膨らませているし、民は田畑を耕しはじめている時期だけど、寒い朝だった。
思わず布団に再び潜りたくなったけど、どうにも朝日を浴びてしまうと、起き上ってしまうのがすっかりしみついた九郎の性だ。
むくり、と起き上り、大きく伸びをして、深呼吸。寒い分だけ、胸に入る空気が冷ややかで心地よかった。
弁慶が京にちょこちょこと出かけている間だけ、九郎の日課は少し増える。
朝、起きて軽く身支度をして整えたすぐ後に、鍛錬よりも朝餉よりも先に、廊下を少しだけ歩いて、とある部屋の戸という戸を開くのだ。
それは普通ならなんでもない、すぐに終わる作業だったけど、その部屋……弁慶の部屋に、そんな「普通」は通用しない。平泉に来てもうすぐ二年、になるのか。その間にすっかりと、部屋は狭くなっていた。だから、毎朝、九郎は慎重に、物を踏んだり崩さないようにして……それはけして、後で部屋の主が長々と意味の分からぬ苦情を言ってくるからではなく、なにか変なものでも出てきたら嫌だとか、そもそも踏んづけたりしたら痛いから、という程度の理由だったけど、九郎はそろそろと、毎日同じあたりに足を置きつつ、部屋の全ての戸を開けていたのだった。
頼まれたわけではなかった。むしろ、昔空気を入れ替えろ!と言った九郎に、やっぱり意味の分からない長い話でもって、とにかく嫌だお断りですと言われた程だから、弁慶がいうには「余計なおせっかい」なんだろうと思う。
でも、九郎からすれば、胡散臭いものと謎の薬草が山積みのこの部屋を閉め切っておくなんてすっきりしないから、弁慶がいない隙にここぞとばかりに空気を入れ替えてやると思っていたのだった。変なものでも呼びこんだら、御館に顔向けができない。
ということで、今日もその日課をこなすべく、九郎は弁慶の部屋に向かった。ぎしぎしと静かに廊が音を鳴らす。板は冷たかった。やはり今日は寒い。外を見れば空は晴れ、鳥も朝から楽しそうに囀っていて、のどかに見えるほどだったけど、九郎はぶるぶると身を小さく震わせながら、なんとなく歩みを速めた。
けど、目的地が見えた時、九郎はぱたりと足を止めた。
部屋の戸が既に一部開いている。
もしかして、と思い、ゆっくりと近づき、覗きこめば、
「いつの間に」
部屋の主がすうすうと、出かける時に纏う黒い外套を脱ぐこともなく、寝息を立てて眠っていた。
知らなかった。夜中に戻ってきていたのだろうけど、全く気付かなかった。
九郎は二歩、三歩と近づく。そして、
「べ」
んけい、と、名を呼ぼうとして、でも止まった。
「……」
たぶん、まだ暗いうちに戻ってきたのだろうに、今日が昇った時刻だというのにもかかわらず寒い日だというのに、戸を閉めることなく、布団も敷くこともなく、倒れこむように眠っている彼の隣に、音を立てぬように、なにかを踏まないようにそっと、こじんまりと九郎は座る。
疲れているんだろうな、とか、そんな事も思ったけど、それよりも、ただ、起こしたくないな、と、思ってしまった。
きらきらと、朝の光を受ける髪色が柔らかそうだった。
その下で閉じたままの瞳は、多分眩しいだろうに開きそうな気配もなく、寝息も穏やかで、
京から持ってきた荷物……多分、また、九郎には一切価値の分からない怪しいものなんだろうけど、どうみてもごつごつした袋を抱きかかえ、黒い衣の下で縮こまってる彼を見つめてしまった。
だって、ただ弁慶がいる、それだけで、昨日まで胡散臭さしか感じなかった部屋が、いつもよりもずっと寒い朝だというのに、暖かく見えてしまって。
まるで、部屋自体が息を吹き返したみたいに。
なんだかすごいな、と、勝手に納得して、九郎はゆっくりと弁慶の頭に手を伸ばす……けど、それもやはり、途中で止まった。
「……何をしてるんだ、俺は」
弁慶の頭を撫でてどうする。意味の分からない行動に、自分で首をひねった後、なんとなく、そんな事をしてしまった自分に居心地が悪くなって、九郎はそっと立ち上がった。
部屋を出ても、弁慶が目を覚ました気配はなかった。
伽羅御所まで行って戻ってくると、弁慶が起きて、縁側に腰かけていた。
「九郎、おかえりなさい」
「起きたのか」
「ええ。ついさっきですけどね。君は、御館のところに?」
「ああ。久しぶりにお前にも会いたいと仰ってたぞ」
「では、明日にでも参上しましょうか。丁度、珍しい品を土産に持ってきたことですし」
久しぶりに会うというのに弁慶はいつも通りだった。でも九郎はなんとなく緊張してしまう。
そんな九郎に気付いたかそうでもないのか、弁慶は、九郎の記憶と一切変わらぬ笑顔で九郎を呼ぶ。
「今回は、色々持って帰ってきたんですよ。ほら、このお茶もそうです。君も一口どうですか?」
「え? あ、じゃあ」
情けないほどにぎくしゃくと、弁慶の隣の腰をおろす。そこは陽射しがあって、暖かかった。受け取った湯呑もまだ暖かだった。
茶の味など、九郎には一切分からないけど、進められるままに飲んでみる。と、
「懐かしい味がする」
「でしょう?」
弁慶が楽しそうに説明をはじめた。
「鞍馬の法師殿にいただいたんですよ」
「それでか!」
どおりで懐かしいわけだ。つい、ぐびぐびと飲んでしまった九郎に、弁慶は笑った。
「そんなに好きなんですか? 僕も持ち帰ったかいがあったな」
「あ、すまない!」
「いえ、構いませんよ。まだまだありますから」
「そうか」
だったら、と、九郎は更に口に含む、けど、そう、茶は安いものではないはずだ。
「お前、どうしてこんなものを?」
だから九郎は問うと、弁慶は空を見上げて返す。
「君の為に、苦労して手に入れてきました、と言えればよかったんですけどね」
その横顔はなんだか綺麗に見えて、九郎はまた、訳もなくどきりとした。でも、弁慶の続けた言葉は、全く意外なものだった。
「偶然ですよ。京で、馬が暴れて困っている方がいらっしゃったので、お助けしたら、お礼にと」
「……お前が? 鞍馬の僧を助けたのか?」
「君は一体僕をなんだと思ってるんですか。人助けくらいしますよ、たまにはね。これでも薬師なんですから」
「だけど……昔散々俺たちを痛い目に合わせたくせに」
「昔の話ですよ。もし仮に、今もそうだったら、僕たちは夜な夜な喧嘩をしなきゃいけないんですか?」
「そういうことになるのか?」
「そういうことになります」
なんか、話がずれてきた気がする。九郎は思ったけど、それを指摘するよりも先に、京でやってたような事を、今ここで弁慶とすることを想像してしまった。そして。
「……夜は嫌だけど、朝に手合わせをするなら悪くない気がするな」
という結論を口にしたら、今度は弁慶が珍しくはっきりと嫌そうな顔をした。
「どうしてそういう発想になるんですか」
「お前に言われたくない!」
だけど、九郎がそう言い返すと、いきなり肩を揺らして笑いだしてしまった。
あまりにも意味が分からないそれに、九郎は膨れた。まったく、帰ってくるなりなんなんだこいつは、と、言いたかったけど、言っても更に笑われるだけなのは明白だったから、かわりに湯呑を置いて、足をぶらぶらさせながら空を見上げた。
朝の寒さが嘘のように、すっかり暖かになっていた。ここが日向で、茶を飲んだせいもあるのだろうけど、少し暑いくらいだ。それ以外は、すっかりいつもの景色だった。
ふと、隣の弁慶を見ると、やっと笑うのをやめた彼が、だけど笑顔でこちらを見た。
「そういえば、弁慶」
気がついたら呼んでいた。
「なんですか?」
「ただいま」
言うと、弁慶は驚いたのか、呆れたのか、目を見開いた。
無理もないと思う。自分でも変なことを言ってる自覚はあった。でも言ってしまったんだ、仕方ない。とはいえやはり、朝に弁慶の頭を撫でようとしてしまった時と同じような居心地の悪さを感じて、九郎は一人で戸惑う。
戸惑って、やっぱりよく分からないけど、弁慶の頭に手を置いてみた。こんな風に意識して触れたのは多分初めてで、ゆえに結局、落ち着きを取り戻せるわけなどないから、がしがしっと適当に、頭を撫でた後、元の膝の上に手を戻した。
弁慶は終始ぽかんと、不審な九郎を見ていた。だけど、九郎が沈黙に耐えきれずに逃げ出してしまうよりは先に、なんでもなかったような風に、
「僕も、ただいま九郎」
と、言って、微笑んだ。
それだけで、さっきまでが嘘のように、ふわついた気持ちが、別の何かに変わって、良く分からないうちに消えてしまった。もう、何にそんなに焦っていたのかも思いだせなくなっていた。
「ふふっ、まだ何か言い足りない?」
「いや……うん、なんでもない。それより、何か面白い話はないのか!?」
「ああ、それでしたら……」
そして九郎……と、弁慶は、再び空を呑気に見上げながら、他愛のない話を夕方まで続けた。
ほんとの一発書き
もう九弁は来月まで書けないんじゃないかと思ってた、なんとなく。
思わず布団に再び潜りたくなったけど、どうにも朝日を浴びてしまうと、起き上ってしまうのがすっかりしみついた九郎の性だ。
むくり、と起き上り、大きく伸びをして、深呼吸。寒い分だけ、胸に入る空気が冷ややかで心地よかった。
弁慶が京にちょこちょこと出かけている間だけ、九郎の日課は少し増える。
朝、起きて軽く身支度をして整えたすぐ後に、鍛錬よりも朝餉よりも先に、廊下を少しだけ歩いて、とある部屋の戸という戸を開くのだ。
それは普通ならなんでもない、すぐに終わる作業だったけど、その部屋……弁慶の部屋に、そんな「普通」は通用しない。平泉に来てもうすぐ二年、になるのか。その間にすっかりと、部屋は狭くなっていた。だから、毎朝、九郎は慎重に、物を踏んだり崩さないようにして……それはけして、後で部屋の主が長々と意味の分からぬ苦情を言ってくるからではなく、なにか変なものでも出てきたら嫌だとか、そもそも踏んづけたりしたら痛いから、という程度の理由だったけど、九郎はそろそろと、毎日同じあたりに足を置きつつ、部屋の全ての戸を開けていたのだった。
頼まれたわけではなかった。むしろ、昔空気を入れ替えろ!と言った九郎に、やっぱり意味の分からない長い話でもって、とにかく嫌だお断りですと言われた程だから、弁慶がいうには「余計なおせっかい」なんだろうと思う。
でも、九郎からすれば、胡散臭いものと謎の薬草が山積みのこの部屋を閉め切っておくなんてすっきりしないから、弁慶がいない隙にここぞとばかりに空気を入れ替えてやると思っていたのだった。変なものでも呼びこんだら、御館に顔向けができない。
ということで、今日もその日課をこなすべく、九郎は弁慶の部屋に向かった。ぎしぎしと静かに廊が音を鳴らす。板は冷たかった。やはり今日は寒い。外を見れば空は晴れ、鳥も朝から楽しそうに囀っていて、のどかに見えるほどだったけど、九郎はぶるぶると身を小さく震わせながら、なんとなく歩みを速めた。
けど、目的地が見えた時、九郎はぱたりと足を止めた。
部屋の戸が既に一部開いている。
もしかして、と思い、ゆっくりと近づき、覗きこめば、
「いつの間に」
部屋の主がすうすうと、出かける時に纏う黒い外套を脱ぐこともなく、寝息を立てて眠っていた。
知らなかった。夜中に戻ってきていたのだろうけど、全く気付かなかった。
九郎は二歩、三歩と近づく。そして、
「べ」
んけい、と、名を呼ぼうとして、でも止まった。
「……」
たぶん、まだ暗いうちに戻ってきたのだろうに、今日が昇った時刻だというのにもかかわらず寒い日だというのに、戸を閉めることなく、布団も敷くこともなく、倒れこむように眠っている彼の隣に、音を立てぬように、なにかを踏まないようにそっと、こじんまりと九郎は座る。
疲れているんだろうな、とか、そんな事も思ったけど、それよりも、ただ、起こしたくないな、と、思ってしまった。
きらきらと、朝の光を受ける髪色が柔らかそうだった。
その下で閉じたままの瞳は、多分眩しいだろうに開きそうな気配もなく、寝息も穏やかで、
京から持ってきた荷物……多分、また、九郎には一切価値の分からない怪しいものなんだろうけど、どうみてもごつごつした袋を抱きかかえ、黒い衣の下で縮こまってる彼を見つめてしまった。
だって、ただ弁慶がいる、それだけで、昨日まで胡散臭さしか感じなかった部屋が、いつもよりもずっと寒い朝だというのに、暖かく見えてしまって。
まるで、部屋自体が息を吹き返したみたいに。
なんだかすごいな、と、勝手に納得して、九郎はゆっくりと弁慶の頭に手を伸ばす……けど、それもやはり、途中で止まった。
「……何をしてるんだ、俺は」
弁慶の頭を撫でてどうする。意味の分からない行動に、自分で首をひねった後、なんとなく、そんな事をしてしまった自分に居心地が悪くなって、九郎はそっと立ち上がった。
部屋を出ても、弁慶が目を覚ました気配はなかった。
伽羅御所まで行って戻ってくると、弁慶が起きて、縁側に腰かけていた。
「九郎、おかえりなさい」
「起きたのか」
「ええ。ついさっきですけどね。君は、御館のところに?」
「ああ。久しぶりにお前にも会いたいと仰ってたぞ」
「では、明日にでも参上しましょうか。丁度、珍しい品を土産に持ってきたことですし」
久しぶりに会うというのに弁慶はいつも通りだった。でも九郎はなんとなく緊張してしまう。
そんな九郎に気付いたかそうでもないのか、弁慶は、九郎の記憶と一切変わらぬ笑顔で九郎を呼ぶ。
「今回は、色々持って帰ってきたんですよ。ほら、このお茶もそうです。君も一口どうですか?」
「え? あ、じゃあ」
情けないほどにぎくしゃくと、弁慶の隣の腰をおろす。そこは陽射しがあって、暖かかった。受け取った湯呑もまだ暖かだった。
茶の味など、九郎には一切分からないけど、進められるままに飲んでみる。と、
「懐かしい味がする」
「でしょう?」
弁慶が楽しそうに説明をはじめた。
「鞍馬の法師殿にいただいたんですよ」
「それでか!」
どおりで懐かしいわけだ。つい、ぐびぐびと飲んでしまった九郎に、弁慶は笑った。
「そんなに好きなんですか? 僕も持ち帰ったかいがあったな」
「あ、すまない!」
「いえ、構いませんよ。まだまだありますから」
「そうか」
だったら、と、九郎は更に口に含む、けど、そう、茶は安いものではないはずだ。
「お前、どうしてこんなものを?」
だから九郎は問うと、弁慶は空を見上げて返す。
「君の為に、苦労して手に入れてきました、と言えればよかったんですけどね」
その横顔はなんだか綺麗に見えて、九郎はまた、訳もなくどきりとした。でも、弁慶の続けた言葉は、全く意外なものだった。
「偶然ですよ。京で、馬が暴れて困っている方がいらっしゃったので、お助けしたら、お礼にと」
「……お前が? 鞍馬の僧を助けたのか?」
「君は一体僕をなんだと思ってるんですか。人助けくらいしますよ、たまにはね。これでも薬師なんですから」
「だけど……昔散々俺たちを痛い目に合わせたくせに」
「昔の話ですよ。もし仮に、今もそうだったら、僕たちは夜な夜な喧嘩をしなきゃいけないんですか?」
「そういうことになるのか?」
「そういうことになります」
なんか、話がずれてきた気がする。九郎は思ったけど、それを指摘するよりも先に、京でやってたような事を、今ここで弁慶とすることを想像してしまった。そして。
「……夜は嫌だけど、朝に手合わせをするなら悪くない気がするな」
という結論を口にしたら、今度は弁慶が珍しくはっきりと嫌そうな顔をした。
「どうしてそういう発想になるんですか」
「お前に言われたくない!」
だけど、九郎がそう言い返すと、いきなり肩を揺らして笑いだしてしまった。
あまりにも意味が分からないそれに、九郎は膨れた。まったく、帰ってくるなりなんなんだこいつは、と、言いたかったけど、言っても更に笑われるだけなのは明白だったから、かわりに湯呑を置いて、足をぶらぶらさせながら空を見上げた。
朝の寒さが嘘のように、すっかり暖かになっていた。ここが日向で、茶を飲んだせいもあるのだろうけど、少し暑いくらいだ。それ以外は、すっかりいつもの景色だった。
ふと、隣の弁慶を見ると、やっと笑うのをやめた彼が、だけど笑顔でこちらを見た。
「そういえば、弁慶」
気がついたら呼んでいた。
「なんですか?」
「ただいま」
言うと、弁慶は驚いたのか、呆れたのか、目を見開いた。
無理もないと思う。自分でも変なことを言ってる自覚はあった。でも言ってしまったんだ、仕方ない。とはいえやはり、朝に弁慶の頭を撫でようとしてしまった時と同じような居心地の悪さを感じて、九郎は一人で戸惑う。
戸惑って、やっぱりよく分からないけど、弁慶の頭に手を置いてみた。こんな風に意識して触れたのは多分初めてで、ゆえに結局、落ち着きを取り戻せるわけなどないから、がしがしっと適当に、頭を撫でた後、元の膝の上に手を戻した。
弁慶は終始ぽかんと、不審な九郎を見ていた。だけど、九郎が沈黙に耐えきれずに逃げ出してしまうよりは先に、なんでもなかったような風に、
「僕も、ただいま九郎」
と、言って、微笑んだ。
それだけで、さっきまでが嘘のように、ふわついた気持ちが、別の何かに変わって、良く分からないうちに消えてしまった。もう、何にそんなに焦っていたのかも思いだせなくなっていた。
「ふふっ、まだ何か言い足りない?」
「いや……うん、なんでもない。それより、何か面白い話はないのか!?」
「ああ、それでしたら……」
そして九郎……と、弁慶は、再び空を呑気に見上げながら、他愛のない話を夕方まで続けた。
ほんとの一発書き
もう九弁は来月まで書けないんじゃないかと思ってた、なんとなく。
※前編・中編から続いてます
※本編3章開始時程度のネタばれがちょっとあります
幸鷹を呼びに行くために、勝真、イサト、泉水、彰紋の四人は翡翠を残し、朱雀門を北上、内裏のごく近くまでやってきた。
「やな予感しかしねー」
「同じく」
なんで幸鷹を。と、問うても翡翠は答えはしなかった。言わないだろうなとは思っていたけど予想通りでも嬉しくない。
「翡翠殿にも、きっとなにか、事情がおありでしたのでしょう」
「そーかもしんないけどさ、見ただろ? あの、企んでますって顔。しかも相手は幸鷹だし」
イサトがめいいっぱい嫌な顔して言ったそれに、勝真も再び大きく頷いた。
翡翠が人をからかうのが好きな性格の歪んだ海賊なのは、周知のこと。その彼の被害をとりわけ受けているのが幸鷹だというのもまた、周知のことだった。
「ですが、いたずらに事を荒げる方ではないのではないのでしょうか」
「素直に協力するやつでもないだろ」
「まーでも、もしかしたら泉水の頼みだから、平気かもってのはあるかもよ?」
「だけど、あいつを連れて来い、だぜ?」
「それはなあ~」
思い思いに、翡翠の企みの事を喋っていた三人に、それまで黙っていた彰紋が凛と割り入った。
「……ここから先は、僕一人で行った方がいいかと思います。みなさんはここで待っていてください」
話してるうちに、内裏はごく目前だった。
「ああ、そうか」
八葉になってからが特異なだけで、内裏は本来、勝真やイサトがほいほい入れるような所ではない。ましてや検非違使庁なんて。反論もなく、勝真とイサトは立ち止まる。笑顔で託した。
「頼んだぜ、彰紋!」
「はい」
けどその横で泉水が、うろたえていると思ったら。
「あのっ、彰紋さまっ!!」
ちょっと大きな声で呼び止めた。
「どうしましたか?」
「その……差し支えなければ、私に行かせていただけませんでしょうか?」
「泉水殿?」
心底不思議そうに、首を傾げた彰紋に、泉水は更にうろたえた。
「あっ違うのです。けして彰紋さまを頼りなく感じているとか、けしてそのようなわけではないのです」
「はい。泉水殿がそのような方でないことは、僕、知っております」
「ありがとうございます、彰紋さま」
言い、一度頭を下げる泉水。それでいくらか落ち着いたのか、今度は少しはっきりと続けた。
「彰紋さまのお気持ち、ありがたく思います。ですがやはり、ここはみなさまに御迷惑をおかけしている私が行くべきだと思ったのです」
「良く言った!!」
「わっっ」
泉水が言い終わると同時に、勝真とイサトが彼の背を思い切り叩いた。
「ここは、泉水殿に任せちまえよ、彰紋」
彰紋もすぐに頷いた。
「出過ぎた真似をしてしまったみたいですね。分かりました、僕はここで、勝真殿たちとお待ちしています」
「はい。行ってまいります」
泉水はさらに力強く頷いた。ぎゅっと胸元で握りしめた拳も今は頼もしかった。
「本当のところ、助かりました」
泉水が建物に消えた後、もう見えぬ彼の背でも思い浮かべているかのように、ぼんやりと彰紋が口にした。
「……ああ、そうか。そうだったな」
「ええ」
失念していた事情に気付き、勝真は腕を組みつつ頷くけど、イサトは素直に、
「……オレにはさっぱりなんだけど」
言うけど、彰紋は彼に向き直ることなく、瞬きだけして続けた。
「検非違使庁は、幸鷹殿がそうであるように、父……院側ですから、僕が立ち入ると……」
「そーいう話か」
把握したイサトは面白くなさそうに、頭の後ろで手を組んだ。
「『あいつ』がせっかく頑張ってるのにな」
「もう少しだろ」
「……んだな」
二人の言葉に、彰紋は静かに空を仰いだ。
泉水は間もなく幸鷹を伴って戻ってきた。急に呼び出されたにも関わらず、彼はいつも通りの穏やか、というか呑気な調子で同行してくれた、
のも、朱雀門に到着するまで。翡翠の顔を一目見るなり、その眉は斜めに跳ね上がった。とはいえ、
「これは、幸鷹殿。わざわざ御足労をかけてしまってすまないね」
声が届く距離まで幸鷹が来るやいなや、翡翠がそんな言葉を、肩に落ちる髪を払いながら言うのだから、無理もないと言わざるを得なかった。
「こんにちは翡翠殿。珍しいですね、あなたが、私に何の用でしょうか」
「相変わらず恐ろしい顔をするね幸鷹殿。それでは美人が台なしだ」
「八葉という立場、役目、なにより神子殿の悲しむ姿は見たくないという一心で、今まで見逃していましたが、やはり捕まえた方が世の為ですね、貴方は」
「おお、ますます恐ろしい」
「翡翠殿!!」
不機嫌全開な幸鷹に対して、底意地の悪い笑みを浮かべっぱなしの翡翠。それでも整った顔が崩れる事ないのは年期の入った海賊だからなのか。すさまじい。
「あの、翡翠殿どうか、どうかあまり事を荒立てすぎませぬよう、お願いいたします」
元凶である泉水がわたわたと、二人の間に入ってなだめようとするも、翡翠はそれさえも面白がっているようにしか勝真には見えなかった。隣のイサトをちらりと見ると、彼も呆れて言葉もでないという顔で、その向こうの彰紋は彰紋で、困惑しきって白虎の二人のやりとりを見ていた。
そんな中、まるで泉水を庇うかのように、幸鷹がずいと前に出た。
「それで、私に何の用でしょう。何もなく呼ぶほど無礼ではないと、私は認識しているのですが」
それでも翡翠はどこ吹く風。
「これはこれは。ずいぶんと高く評価をしていただけたようだ」
「悔しいですが、貴方の有能さはよく知っていますから」
心底悔しそうな幸鷹を目前に、どこまでも歪んだ笑みを浮かべる。
「ふふ、だけど幸鷹殿、残念ながら、私は海賊なのだよ。泉水殿の大切な大切な笛、というのを盾にさせていただいているんだ、せっかくだから、少し遊ばせてもらおうか」
「くっ」
それにはさすがに勝真がキレた。
「てめえいい加減にしろよ。それはさすがに冗談がすぎるだろ」
すると、翡翠は更に愉快に勝真を見た。
「ほう。君が、幸鷹殿を庇うなんてね」
「あんたのやり方が気に食わないだけだ」
逆効果だったか?思えど怒りは止まらない。けど、勝真が返すより先に。
「勝真の言う通りだぜ」
「翡翠殿、ひどいです」
「なにか、ご命令があるのでしたら、私が幸鷹殿の分まで担わせていただきますゆえ、どうか、どうかこれ以上幸鷹殿をお困らせになりませぬよう」
三人から言われて。
「やれやれ、お若い宮様方や、イサト殿にまで言われてしまうと、弱いな」
さすがの翡翠も肩を竦める。
「では」
「……今日のところは諦めて、素直に打ち明けるとしようか」
「いや、明日以降も諦めとけよ、それ」
イサトの突っ込みは冷ややかに聞き流して、翡翠は説明をはじめた。
曰く。
なんてことない。ただ単に、鳥は検非違使庁に笛を持って降り、けれど再び羽ばたいたときには、なにも持っていなかった、つまり、
幸鷹に、その権限をもって、庁内のどこかにある笛を探してきてほしい、というだけのことだった。
人騒がせな、とか、最初から言えよ、とか、言いたいことは山ほどあったが、今だ性質の悪い笑みを消さない翡翠はその場に残し、五人は来た道を戻る。
そして笛を探しに内裏へ入った幸鷹と泉水を三人は再び見送った。
勝真が一条戻り橋で泉水を見つけた頃は、まだ昼過ぎだったが、もはやすっかり夕暮れ時。空に薄く広がる雲を、薄紅や黄、薄紫など色とりどりに染めていた。そこを鳥が一斉に横切ってゆく。三人はそれをなんとなく黙って眺めていた。
急に、ひひんと勝真の馬が嘶いた。なにかと思えば、良く知る姿が、音もなく佇んでいた。
「おまっ……いつからいたんだよ」
「今しがただ」
勝真の声に弾かれたように、横を見た朱雀の二人も、やはり同様に驚いた。
「頼忠殿」
「びっくりさせるな!!」
けれどそれも最初だけ。三人はすぐにそれぞれ楽しそうに、あるいはしたり顔で笑った。
「まあ、そろそろ来る頃だろうとは思ってたけどな」
「ふふっ、これで八葉勢揃いですね」
「どういうことでしょうか?」
当たり前に、一人事情を飲み込めない頼忠は、馬から降りながら問う。でも詳細を語るより先に、面倒がって勝真が聞いた。
「それよりお前、今暇か?」
「頭領からの使いで、今から神子様の元に向かうところだが…」
「じゃあ決まりだな」
「だから何の話だ」
「……確かに、何の話だ?これ」
「改まって聞かれると、なんて言えばいいのか難しいですね」
顔を見合わせる朱雀の二人に、ますます頼忠は困惑した。
笛の音が響く。
「いつ聞いても、泉水殿の笛は美しいです」
と、彰紋は目を閉じうっとりと口にしたけど、正直勝真にはよく分からない。聞いていて不快じゃない、という点では間違いなかったけど。
笛が響く。庭にも届く。
勝真が一人寄り道した後、この紫姫の邸の庭に辿りついた時、彼らはすでにここにいた。泉水に、「せっかくだから今日中に笛を神子に奏上してくればいい」と言っていたのだから、てっきり中にいるかと思っていたのだけど、半日の間、あんなに顔を白黒させながら頑張った泉水への祝福をこめて、ということで、早々に退散してここで聞いていたらしい。
さっきまで空を覆っていた薄雲も随分と晴れて、こちらは勝真にも風情があると思えた。ただ、こうして庭で、静かに笛を聞く分には寒い。と思ってるのは勝真だけか。
「やっぱりいいよな。疲れも吹っ飛ぶ気がするぜ」
イサトまでそんなことを言うものだから、ちょっと勝真は茶々を入れたくなった。
「……なんだイサト、あれくらいで疲れたのか?」
「僕もまだまだ平気です」
「うっせえ、オレは、お前らに会った時、寺で散々水を運びまくった後だったんだよ!」
「そういうことにしといてやるか、な、彰紋」
「はい」
「だからー!」
巻き起こる笑い声。それは笛の音とは随分と対称的だった、
から、というわけじゃないだろうが、声を落として彰紋が話題を変えた。
「そういえば、泰継殿は、何か言われてましたか?」
「『当然だ』」
「…って言ってたのか?」
「当然だ」
「ふふっ、泰継殿らしいですね」
ここに来る前に、勝真は一人、泰継の所に寄っていた。
……検非違使庁で、泉水が笛を見つけ建物から出てきたのは、勝真たちが頼忠と遭遇してからすぐだった。
早かった。検非違使たちが既に、庭に落ちた笛を見つけていたかららしい。
泉水は何度も皆に礼を言った。関係ない頼忠にまで礼を言いまくっていた。そして…どうせ捕まらない翡翠はともかく、泰継にも礼を言いたいと言った。
けど、今にも日が暮れそうな時刻、しかも、神子の元に行くことも決まっていたから、かわりに勝真が一人で報告しに行ったのだった。
「ですが、約束もしてないのに、こんな風に八葉の皆さんとお会いできるとは、思ってもみませんでした」
彰紋がまた、話題を変えた。
「それは言えるな」
「彰紋様、私は何もしておりませぬが故数に含んでいただくわけには、」
ただ、頼忠はそうやんわりと否定したけど、
「僕たちの護衛をしてくださいました」
「お前がいなきゃ、俺も泰継のとこにいけなかったな」
「彰紋様、お心遣い感謝いたします」
すぐに笑顔を向けた。珍しいものを見た。
「おいおい、俺に礼はないのかよ」
「ない」
「それより勝真、護衛ならオレがいたじゃねーか。そっちはどうなってるんだよ」
今度は隣でイサトが突っかかってくる。
「何言ってんだよ、お前ヘトヘトだっただろ?」
「だーかーら、水汲みのせいだ、水汲みの!!」
「どっちでも一緒だろ」
「いいや、違う!」
でも。
「声が大きいぞ勝真。笛を聞け」
予想外に、頼忠に窘められた。それに二人揃って驚き、結果、言い争いは止まった。
「……あんた、笛とか好きだったのか?」
「違う。他に楽しんでいらっしゃる方に迷惑だろう」
「他に、ですか? ……あっ!」
頼忠の視線の先から、がさりと庭木の音。はらりと見えた衣の丈は大きくない。
「深苑殿?」
「おそらくは」
少し前に、ここを飛び出してしまった深苑。その彼がここに、どうして。
忘れ物でもあるのか、あるいは。
「ったく、何こそこそと、隠れて来るんだあいつは」
勝真は舌を打つ。彰紋などは顔を曇らせるけれど、
再び静かになった庭に、笛は響く。泰継が言うには清浄な気がこめられて。
「……あいつのことだ、その辺で聞いてそうだな」
間違っても聞こえないように呟くと、彰紋もイサトも笑った。
大きく風が吹いた。いよいよ本格的に肌寒くなってきて、勝真は身を震わせる。
そろそろ帰るか、と、足に力を入れたところで、
だけど頼忠が言った。
「よかったな」
珍しく、明朗な声だった。
「なにが?」
「お前が声をかけてくれたお陰だ、と泉水様が仰られておられたぞ」
それに、立ち尽くす。……ああ。そういえば、そうだった。最初に泉水を見かけたのは、偶然だけど自分だった。
「京職のお仕事のおかげ、ですね、勝真殿」
「ま、そーだけどさ」
それに言葉を詰まらせる。こんなこともあればと続けていたこととはいえ、改めて言われると、なんていうか……、
「あっ照れてるぜこいつ」
「照れて悪いか!」
「いたたた痛えよそこ水運んで痛えからやっまじ!」
イサトの悲鳴を余所に、笛の音に乗って三人の笑い声も響いた。
「いい日でした」
「それは、よろしゅうございました」
うろ覚えという名のはったりと願望で最後まで書いてしまいました。本編との違いは読みながら素敵に補っていただければ幸いです。
※本編3章開始時程度のネタばれがちょっとあります
幸鷹を呼びに行くために、勝真、イサト、泉水、彰紋の四人は翡翠を残し、朱雀門を北上、内裏のごく近くまでやってきた。
「やな予感しかしねー」
「同じく」
なんで幸鷹を。と、問うても翡翠は答えはしなかった。言わないだろうなとは思っていたけど予想通りでも嬉しくない。
「翡翠殿にも、きっとなにか、事情がおありでしたのでしょう」
「そーかもしんないけどさ、見ただろ? あの、企んでますって顔。しかも相手は幸鷹だし」
イサトがめいいっぱい嫌な顔して言ったそれに、勝真も再び大きく頷いた。
翡翠が人をからかうのが好きな性格の歪んだ海賊なのは、周知のこと。その彼の被害をとりわけ受けているのが幸鷹だというのもまた、周知のことだった。
「ですが、いたずらに事を荒げる方ではないのではないのでしょうか」
「素直に協力するやつでもないだろ」
「まーでも、もしかしたら泉水の頼みだから、平気かもってのはあるかもよ?」
「だけど、あいつを連れて来い、だぜ?」
「それはなあ~」
思い思いに、翡翠の企みの事を喋っていた三人に、それまで黙っていた彰紋が凛と割り入った。
「……ここから先は、僕一人で行った方がいいかと思います。みなさんはここで待っていてください」
話してるうちに、内裏はごく目前だった。
「ああ、そうか」
八葉になってからが特異なだけで、内裏は本来、勝真やイサトがほいほい入れるような所ではない。ましてや検非違使庁なんて。反論もなく、勝真とイサトは立ち止まる。笑顔で託した。
「頼んだぜ、彰紋!」
「はい」
けどその横で泉水が、うろたえていると思ったら。
「あのっ、彰紋さまっ!!」
ちょっと大きな声で呼び止めた。
「どうしましたか?」
「その……差し支えなければ、私に行かせていただけませんでしょうか?」
「泉水殿?」
心底不思議そうに、首を傾げた彰紋に、泉水は更にうろたえた。
「あっ違うのです。けして彰紋さまを頼りなく感じているとか、けしてそのようなわけではないのです」
「はい。泉水殿がそのような方でないことは、僕、知っております」
「ありがとうございます、彰紋さま」
言い、一度頭を下げる泉水。それでいくらか落ち着いたのか、今度は少しはっきりと続けた。
「彰紋さまのお気持ち、ありがたく思います。ですがやはり、ここはみなさまに御迷惑をおかけしている私が行くべきだと思ったのです」
「良く言った!!」
「わっっ」
泉水が言い終わると同時に、勝真とイサトが彼の背を思い切り叩いた。
「ここは、泉水殿に任せちまえよ、彰紋」
彰紋もすぐに頷いた。
「出過ぎた真似をしてしまったみたいですね。分かりました、僕はここで、勝真殿たちとお待ちしています」
「はい。行ってまいります」
泉水はさらに力強く頷いた。ぎゅっと胸元で握りしめた拳も今は頼もしかった。
「本当のところ、助かりました」
泉水が建物に消えた後、もう見えぬ彼の背でも思い浮かべているかのように、ぼんやりと彰紋が口にした。
「……ああ、そうか。そうだったな」
「ええ」
失念していた事情に気付き、勝真は腕を組みつつ頷くけど、イサトは素直に、
「……オレにはさっぱりなんだけど」
言うけど、彰紋は彼に向き直ることなく、瞬きだけして続けた。
「検非違使庁は、幸鷹殿がそうであるように、父……院側ですから、僕が立ち入ると……」
「そーいう話か」
把握したイサトは面白くなさそうに、頭の後ろで手を組んだ。
「『あいつ』がせっかく頑張ってるのにな」
「もう少しだろ」
「……んだな」
二人の言葉に、彰紋は静かに空を仰いだ。
泉水は間もなく幸鷹を伴って戻ってきた。急に呼び出されたにも関わらず、彼はいつも通りの穏やか、というか呑気な調子で同行してくれた、
のも、朱雀門に到着するまで。翡翠の顔を一目見るなり、その眉は斜めに跳ね上がった。とはいえ、
「これは、幸鷹殿。わざわざ御足労をかけてしまってすまないね」
声が届く距離まで幸鷹が来るやいなや、翡翠がそんな言葉を、肩に落ちる髪を払いながら言うのだから、無理もないと言わざるを得なかった。
「こんにちは翡翠殿。珍しいですね、あなたが、私に何の用でしょうか」
「相変わらず恐ろしい顔をするね幸鷹殿。それでは美人が台なしだ」
「八葉という立場、役目、なにより神子殿の悲しむ姿は見たくないという一心で、今まで見逃していましたが、やはり捕まえた方が世の為ですね、貴方は」
「おお、ますます恐ろしい」
「翡翠殿!!」
不機嫌全開な幸鷹に対して、底意地の悪い笑みを浮かべっぱなしの翡翠。それでも整った顔が崩れる事ないのは年期の入った海賊だからなのか。すさまじい。
「あの、翡翠殿どうか、どうかあまり事を荒立てすぎませぬよう、お願いいたします」
元凶である泉水がわたわたと、二人の間に入ってなだめようとするも、翡翠はそれさえも面白がっているようにしか勝真には見えなかった。隣のイサトをちらりと見ると、彼も呆れて言葉もでないという顔で、その向こうの彰紋は彰紋で、困惑しきって白虎の二人のやりとりを見ていた。
そんな中、まるで泉水を庇うかのように、幸鷹がずいと前に出た。
「それで、私に何の用でしょう。何もなく呼ぶほど無礼ではないと、私は認識しているのですが」
それでも翡翠はどこ吹く風。
「これはこれは。ずいぶんと高く評価をしていただけたようだ」
「悔しいですが、貴方の有能さはよく知っていますから」
心底悔しそうな幸鷹を目前に、どこまでも歪んだ笑みを浮かべる。
「ふふ、だけど幸鷹殿、残念ながら、私は海賊なのだよ。泉水殿の大切な大切な笛、というのを盾にさせていただいているんだ、せっかくだから、少し遊ばせてもらおうか」
「くっ」
それにはさすがに勝真がキレた。
「てめえいい加減にしろよ。それはさすがに冗談がすぎるだろ」
すると、翡翠は更に愉快に勝真を見た。
「ほう。君が、幸鷹殿を庇うなんてね」
「あんたのやり方が気に食わないだけだ」
逆効果だったか?思えど怒りは止まらない。けど、勝真が返すより先に。
「勝真の言う通りだぜ」
「翡翠殿、ひどいです」
「なにか、ご命令があるのでしたら、私が幸鷹殿の分まで担わせていただきますゆえ、どうか、どうかこれ以上幸鷹殿をお困らせになりませぬよう」
三人から言われて。
「やれやれ、お若い宮様方や、イサト殿にまで言われてしまうと、弱いな」
さすがの翡翠も肩を竦める。
「では」
「……今日のところは諦めて、素直に打ち明けるとしようか」
「いや、明日以降も諦めとけよ、それ」
イサトの突っ込みは冷ややかに聞き流して、翡翠は説明をはじめた。
曰く。
なんてことない。ただ単に、鳥は検非違使庁に笛を持って降り、けれど再び羽ばたいたときには、なにも持っていなかった、つまり、
幸鷹に、その権限をもって、庁内のどこかにある笛を探してきてほしい、というだけのことだった。
人騒がせな、とか、最初から言えよ、とか、言いたいことは山ほどあったが、今だ性質の悪い笑みを消さない翡翠はその場に残し、五人は来た道を戻る。
そして笛を探しに内裏へ入った幸鷹と泉水を三人は再び見送った。
勝真が一条戻り橋で泉水を見つけた頃は、まだ昼過ぎだったが、もはやすっかり夕暮れ時。空に薄く広がる雲を、薄紅や黄、薄紫など色とりどりに染めていた。そこを鳥が一斉に横切ってゆく。三人はそれをなんとなく黙って眺めていた。
急に、ひひんと勝真の馬が嘶いた。なにかと思えば、良く知る姿が、音もなく佇んでいた。
「おまっ……いつからいたんだよ」
「今しがただ」
勝真の声に弾かれたように、横を見た朱雀の二人も、やはり同様に驚いた。
「頼忠殿」
「びっくりさせるな!!」
けれどそれも最初だけ。三人はすぐにそれぞれ楽しそうに、あるいはしたり顔で笑った。
「まあ、そろそろ来る頃だろうとは思ってたけどな」
「ふふっ、これで八葉勢揃いですね」
「どういうことでしょうか?」
当たり前に、一人事情を飲み込めない頼忠は、馬から降りながら問う。でも詳細を語るより先に、面倒がって勝真が聞いた。
「それよりお前、今暇か?」
「頭領からの使いで、今から神子様の元に向かうところだが…」
「じゃあ決まりだな」
「だから何の話だ」
「……確かに、何の話だ?これ」
「改まって聞かれると、なんて言えばいいのか難しいですね」
顔を見合わせる朱雀の二人に、ますます頼忠は困惑した。
笛の音が響く。
「いつ聞いても、泉水殿の笛は美しいです」
と、彰紋は目を閉じうっとりと口にしたけど、正直勝真にはよく分からない。聞いていて不快じゃない、という点では間違いなかったけど。
笛が響く。庭にも届く。
勝真が一人寄り道した後、この紫姫の邸の庭に辿りついた時、彼らはすでにここにいた。泉水に、「せっかくだから今日中に笛を神子に奏上してくればいい」と言っていたのだから、てっきり中にいるかと思っていたのだけど、半日の間、あんなに顔を白黒させながら頑張った泉水への祝福をこめて、ということで、早々に退散してここで聞いていたらしい。
さっきまで空を覆っていた薄雲も随分と晴れて、こちらは勝真にも風情があると思えた。ただ、こうして庭で、静かに笛を聞く分には寒い。と思ってるのは勝真だけか。
「やっぱりいいよな。疲れも吹っ飛ぶ気がするぜ」
イサトまでそんなことを言うものだから、ちょっと勝真は茶々を入れたくなった。
「……なんだイサト、あれくらいで疲れたのか?」
「僕もまだまだ平気です」
「うっせえ、オレは、お前らに会った時、寺で散々水を運びまくった後だったんだよ!」
「そういうことにしといてやるか、な、彰紋」
「はい」
「だからー!」
巻き起こる笑い声。それは笛の音とは随分と対称的だった、
から、というわけじゃないだろうが、声を落として彰紋が話題を変えた。
「そういえば、泰継殿は、何か言われてましたか?」
「『当然だ』」
「…って言ってたのか?」
「当然だ」
「ふふっ、泰継殿らしいですね」
ここに来る前に、勝真は一人、泰継の所に寄っていた。
……検非違使庁で、泉水が笛を見つけ建物から出てきたのは、勝真たちが頼忠と遭遇してからすぐだった。
早かった。検非違使たちが既に、庭に落ちた笛を見つけていたかららしい。
泉水は何度も皆に礼を言った。関係ない頼忠にまで礼を言いまくっていた。そして…どうせ捕まらない翡翠はともかく、泰継にも礼を言いたいと言った。
けど、今にも日が暮れそうな時刻、しかも、神子の元に行くことも決まっていたから、かわりに勝真が一人で報告しに行ったのだった。
「ですが、約束もしてないのに、こんな風に八葉の皆さんとお会いできるとは、思ってもみませんでした」
彰紋がまた、話題を変えた。
「それは言えるな」
「彰紋様、私は何もしておりませぬが故数に含んでいただくわけには、」
ただ、頼忠はそうやんわりと否定したけど、
「僕たちの護衛をしてくださいました」
「お前がいなきゃ、俺も泰継のとこにいけなかったな」
「彰紋様、お心遣い感謝いたします」
すぐに笑顔を向けた。珍しいものを見た。
「おいおい、俺に礼はないのかよ」
「ない」
「それより勝真、護衛ならオレがいたじゃねーか。そっちはどうなってるんだよ」
今度は隣でイサトが突っかかってくる。
「何言ってんだよ、お前ヘトヘトだっただろ?」
「だーかーら、水汲みのせいだ、水汲みの!!」
「どっちでも一緒だろ」
「いいや、違う!」
でも。
「声が大きいぞ勝真。笛を聞け」
予想外に、頼忠に窘められた。それに二人揃って驚き、結果、言い争いは止まった。
「……あんた、笛とか好きだったのか?」
「違う。他に楽しんでいらっしゃる方に迷惑だろう」
「他に、ですか? ……あっ!」
頼忠の視線の先から、がさりと庭木の音。はらりと見えた衣の丈は大きくない。
「深苑殿?」
「おそらくは」
少し前に、ここを飛び出してしまった深苑。その彼がここに、どうして。
忘れ物でもあるのか、あるいは。
「ったく、何こそこそと、隠れて来るんだあいつは」
勝真は舌を打つ。彰紋などは顔を曇らせるけれど、
再び静かになった庭に、笛は響く。泰継が言うには清浄な気がこめられて。
「……あいつのことだ、その辺で聞いてそうだな」
間違っても聞こえないように呟くと、彰紋もイサトも笑った。
大きく風が吹いた。いよいよ本格的に肌寒くなってきて、勝真は身を震わせる。
そろそろ帰るか、と、足に力を入れたところで、
だけど頼忠が言った。
「よかったな」
珍しく、明朗な声だった。
「なにが?」
「お前が声をかけてくれたお陰だ、と泉水様が仰られておられたぞ」
それに、立ち尽くす。……ああ。そういえば、そうだった。最初に泉水を見かけたのは、偶然だけど自分だった。
「京職のお仕事のおかげ、ですね、勝真殿」
「ま、そーだけどさ」
それに言葉を詰まらせる。こんなこともあればと続けていたこととはいえ、改めて言われると、なんていうか……、
「あっ照れてるぜこいつ」
「照れて悪いか!」
「いたたた痛えよそこ水運んで痛えからやっまじ!」
イサトの悲鳴を余所に、笛の音に乗って三人の笑い声も響いた。
「いい日でした」
「それは、よろしゅうございました」
うろ覚えという名のはったりと願望で最後まで書いてしまいました。本編との違いは読みながら素敵に補っていただければ幸いです。
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